2015クリスマス礼拝 クリスマス礼拝

 
第1部 クリスマス礼拝

日 時:2017年12月16日(土15:00〜16:00
場 所:立教学院聖パウロ礼拝堂(立教新座チャペル)
 
司 会:小林 副会長
受 付:小林、木村、中嶋、鈴木、金子
出席者:89人
 

会長挨拶:桜井斗人 会長
本日は師走のお忙しい中ご来場戴き誠に有難うございます。日頃よりセントポール会の活動にご理解、ご協力戴きまして誠に有難うございます。生徒達が授業で学んでおります礼拝を、保護者の皆様に体験して戴きたく開催をしております。
本日はクリスマス礼拝でございます。第一部クリスマス礼拝、第2部はジャズ研究会によるミニコンサートが行われますので、是非最後までお付き合いの程、宜しくお願いいたします。

校長挨拶:村上和夫 校長
皆さんこんにちは。今日もお集まり戴き有難うございます。セントポール会の皆様方には、学校にいつもご協力を戴きまして本当に有難うございます。
毎年この時期が来るのを待っております。皆さんが集まって今年もクリスマスの礼拝ができるということを神様に感謝したいと思っております。
心を合わせて礼拝をおささげしたいと思います。宜しくお願いします。。
 
 

司 式 :金山 チャプレン
聖書朗読: 角田弘子さん(高校3年生)
上田さえこさん(高校2年生)
木村眞奈美さん(高校1年生)

 
奨 励:スミス チャプレン
父と、子と、聖霊の名によって。アーメン
12月25日にキリストの降誕を祝うようになったのは4世紀だと考えられています。今から1600年以上前のことですが、キリスト教の教会暦の内の主な祝日では祝うようになったのが一番遅い祝日です。それまでは1月6日にキリストの降誕を祝っていたところもあれば、キリストの降誕を祝日として祝っていなかったところもありました。4世紀の終わりごろまでにはキリスト教の教会のほとんどがクリスマスを12月25日に祝うようになりました。英語の「クリスマス」と言う言葉はその25日に行うキリストのミサのことを指していて、「キリスト」と「ミサ」と言う二つの言葉を一つに組み合わせた言葉です。キリストを礼拝することが本来のクリスマスの意味であります。     
最終的にキリストの降誕を25日に祝うようになった理由は幾つかありますが、中でも一番象徴的に大切な理由は闇と光に関することです。夏至と冬至は勿論ご存じだと思いますが、夏至と言うのは一年で一番日の出が長い日で、私たちが使っている現代の西暦では通常6月22日になります。冬至は一年で一番日の出が短い日で、今年は12月22日にあたります。2000年前のローマの暦と日にちが少し異なることもあって、25日は冬至からずれてしまいましたが、本来クリスマスは冬至のお祝いでもあります。ローマ帝国ではこの日に太陽の誕生を祝う祭りもありました。
なぜキリストの降誕と冬至の意味が重なるのでしょうか?キリストが生まれてくることと、一年で一番短い日がどう関係しているのでしょうか? その答えは今日のヨハネ福音書の朗読にあります。
「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」(ヨハネによる福音書1:1−5)
ヨハネはここで神を「言」と呼んでいます。これには奥深い意味がありますが、今日はあまりそれについて語ることはできません。今日はヨハネが語っている「光」の方に焦点をあてます。
ヨハネの福音書の始まりは聖書の一番最初の書物、創世記を思い浮かばせるように書かれています。世界の創造の話で、神はまず最初に言を通して光を造ります。その「ひかり」が全て生けるものの原点です。光があってこそ命が生じるのです。
ヨハネは私たちに何を伝えようとしているのでしょうか。イエス・キリストが罪のない新しい世界、新しい創造の始まりであるということです。私たち人間が自分たちの罪や悪によって破壊してきたこの世界を、神は新たにキリストを初めとして作り変えていることをヨハネは教えています。作り変えるためには新しい光が差さなければならないのです。その光がキリストです。そして、この世の闇に生きる私たちにその光が差したのです。
ヘンデルのメサイアで言うと11番アリア、バスが「The people that walked in darkness」を歌うところです。闇の中に歩む人たちは私たちです。そしてその一番暗い、日の出の短い冬至の日にキリストの降誕を祝うということは、キリストと言う光が一番暗い闇の中に歩んでいる私たちの世界に光として照らされたことを意味しています。
太陽は冬至の日から夏至に向けて日々強まります。キリストも同じように、小さな赤ちゃんとして生まれ、やがて死んだあともよみがえり、教会を通してこの世のすべての人に光を照らし続けています。その光は消えることはないと信じています。
そこで、二つお聞きしたいことがあります。まず、自分の人生の歩みの中で、ここにいる私たちは何の光によって歩んでいますか?何をもって自分の道が照らされていますか?何によって自分の道を定めているでしょうか、ということです。
そして、次に、自分の歩んでいる道はどこに向かっているのでしょうか?
自分の住んでいる近所に道路を考えてみてください。道にある街灯は、歩行者の私たちが躓いたり、転んだりすることがないように私たちが歩く道を照らしています。しかし、光を照らすことによって道の治安をよくする役割もあります。その上、私たちが歩こうとしている先をも照らすことによって、私たちが安全に、自分にも他の人にもケガをさせないで先に進むことが出来るようにしています。
この人生における歩みは、私たちの歩む道を照らす光がないまま歩むことができるのでしょうか。
石川県金沢市に玉泉園と言う庭園があります。江戸初期に作庭されたこの庭園には、茶室とともにキリシタンの灯篭があります。少なくても500年近くイエス・キリストの灯篭の光がこの日本でも差してきたのではないかと思います。この立教新座中学校・高等学校では、石川県の玉泉園の灯篭の光と同じ光が差しています。それは2000年前に神がイエス・キリストを通してこの世に照らした真理と愛の光だと私は信じています。
私もヨハネと同じように、この光について証しをするため、また、人が信じるようになるために来ました。「その光はまことの光で、世に来たすべての人を照らすのである。」(ヨハネ1:9)
クリスマスの前の時期、教会暦では「降臨節」、または「アドベント」と呼んでいますが、この時期というのは、私たち一人一人がもう一度自分の歩んでいる道を確かめる時期なのです。
灯篭のない道を歩んでいる人はいませんか?
灯篭はあるけど、なかなか道に沿って歩んでいない人はいませんか?
自分の道なりや行先がはっきりとしていない人はいませんか?
私たち、立教新座中高の教員や保護者たちの歩んでいる道がはっきりと照らされていなければ、どうやって子供たちや生徒たちに道なりを教えることが出来るのでしょうか?
私たちの道が定まっていなければ、どうやって彼らに道を教えることが出来るのでしょうか?
本校で行っている「キリスト教に基づく人間教育」をするなかで、キリシタンの灯篭を彼らの道に設置していると私は考えています。それは彼らが善と悪を見極めるための灯篭です。彼らが神の愛へと導かれるための灯篭です。ただ思うがまま生きることではなく、ただ自分一人の知恵で生きることでもなく、神が照らした光のもとに歩む生き方を教えています。
イエス・キリストがクリスマスで放つ光は冬至の小さな光ではありますが、かつて小さな光であった2000年前に生まれた光は今、私たちを含め、世の全ての人を照らしています。
人の行動や思い、まして心を変えることはできませんが、私にもできることがひとつあります。
それは洗礼者ヨハネと同じことです。私にできることはここに来る人たちに呼びかけて、その灯篭はあっちだよ、と指をさして彼らを誘導することです。
その灯篭の光によってあの飛び石をたどっていくと向こう側ににじり口があって、たとえ死んだとしても、あなたを蘇らせ、迎え入れる主人が待っている、あなたをもてなす準備をすでに整えてくれている主人が待っていると指差すことができます。これがキリストの光と闇についての意味だと思っています。
私たちはこれからも一人一人歩まなければいけません。何の光によって、どの目的地に至る歩みなのかを考えて確認する時期がクリスマス前の降臨節の時期であります。
父と、子と、聖霊の名によって。アーメン


 
 
第2部 クリスマスコンサートについては 「クリスマスコンサート」のページをご覧ください。