2021年6月5日(土) チャペルアワー
日時:2021年6月5日(土) 14:00~14:45
会場:立教学院聖パウロ礼拝堂(立教新座チャペル)
参加者:オンライン 130名
司式: 石田正嗣 チャプレン
校長挨拶:佐藤忠博 先生
皆さんこんにちは、立教新座中学校高等学校校長佐藤忠博でございます。
本日はセントポール会のチャペルアワーへこうして画面の向こうの皆さんもお集まりいただけましたこと、とてもうれしく思います。本校はご存知の通りキリスト教に基づく人間教育をする立教学院の一つの学校です。けれども、今後ろにも映っていますように、とても大きなチャペルをこの新座にも持っています。週に1度どの学年の皆さんもこのチャペルに集まって、チャペルアワーという礼拝の時間を持っております。もちろんキリスト教を信じている方々そうでない方々も居ると思いますけれども、本校にいる間に皆が同じ場所に集まってお祈りをしたり心を落ち着けたり自分を見つめたり、そういう時間を持てるということは、きっとお子様の成長にとって将来糧になるものと思っております。本来であれば皆さんにもぜひこの場で体験していただけますと嬉しく思うのですけれども、ご承知の通りこのコロナ禍ですのでこうして画面を通してということになりました。どうぞ皆さん、このコロナウイルス感染拡大が収まって、また皆さんが自由にここに来られる機会が訪れましたならば、ぜひチャペルにも足をお運びいただきまして、このチャペルの中で一緒にお祈りの時を持てるその日を楽しみにしております。
このような機会を作ってくださいましたセントポール会の会長さん役員の皆さまに改めまして感謝申し上げます、ありがとうございます。本日はよろしくお願いします。
会長挨拶:亀岡正博
本日はご多用の所、チャペルアワーオンライン配信をご視聴頂き誠にありがとうございます。
このチャペルアワーは普段生徒達が行っている礼拝を保護者の方にも体験して頂くという事で毎年行っておりますが、昨年度は新型コロナウィルス感染症の影響により中止、本年度は諸般の事情に鑑みオンライン配信とさせて頂きました。
本来であれば皆様にこの素晴らしいチャペルまで足を運んで頂き、日常ではなかなか味わえない厳かな雰囲気とパイプオルガンの素敵な音色とともにご一緒にお祈りをお捧げしたいところでございますが、それは年末に予定しておりますクリスマス礼拝の楽しみに取っておきたいと思います。
礼拝終了後にはJAZZ研究会・吹奏楽部のミニライブを動画配信致します。こちらの動画は6月30日まで公開を予定しておりますので、是非、生徒達の素晴らしい演奏をお楽しみ下さい。
最後に、チャペルアワーを開催するにあたりご尽力いただきましたすべての皆様にこの場をお借りしまして御礼申し上げます。ありがとうございました。
それでは最後までどうぞ宜しくお願いいたします。
第1部:礼拝
司式:石田正嗣 チャプレン
パイプオルガン奏者:佐藤雅枝 先生
聖書朗読:コリントの信徒への手紙 第15章12節~19節 阿出川敦子
代祷:今田雄一
聖歌:390番「栄に満ちたる」
讃美歌:21-412「昔主イエスの」
奨励:ベレク・スミス チャプレン
「パスカルの賭け」
「キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか。死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。更に、わたしたちは神の偽証人とさえ見なされます。なぜなら、もし、本当に死者が復活しないなら、復活しなかったはずのキリストを神が復活させたと言って、神に反して証しをしたことになるからです。死者が復活しないのなら、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。そうだとすると、キリストを信じて眠りについた人々も滅んでしまったわけです。この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です。」 コリントの信徒への手紙 一 15章12~19節
セントポール会の皆様、こんにちは。 毎年のチャペルアワーで皆様と一緒に祈るときが与えられて感謝しております。今年は去年のクリスマス礼拝に続いてオンライン配信をしていますが、オンラインでお聞きの皆様とは直接お会いできなくて残念に思います。しかし、オンラインで行うことで、より多くの方々に参加頂けたら嬉しいです。今年度に入ってから、様々な感染防止対策をしつつ、中高生たちもチャペルでの礼拝が再開されました。
さて、今日のチャペルアワーでは、キリスト教の中心にあるイエス・キリストの復活についての聖書箇所が読まれました。十字架の苦しみのことやイエスの教えを耳にしている人も多くいらっしゃると思います。そして、復活のことを耳にした人もそれなりにいるかと思います。しかし、先ほど読まれた箇所を書いたパウロにとって、復活がなければすべてが無意味になると考えています。イエスの復活がなく、「この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です」と書いている通りです。なぜそこまで復活のことに執着するのでしょうか?そのことはまた後程キリスト教の観点から話したいと思います。
その前にですが、私はいつも生徒たちの考えにとても興味を持っているので、よく彼らがなにを思っているかを聞いています。中2の授業でもイエスの生涯と復活について触れていますが、生徒たちの考えも知りたく、わたしたちはいつも彼ら自身の考えを聞いております。自分たちが死んだあと、「どうなると思いますか」と聞いてみたところ、様々な答えがでます。「母なる大地に戻る」、「葬式をしてくれる」、「わからない」「各自願っているようになりたい」、「他の人を愛した人は天国に行ける」、「人間には見えないが、自分たちの近くで自分たちを見ている」、などと言ったような答えがあります。しかし、「転生」と答える生徒が最も多く見られました。つまり、何等かの生き物として(人間とは限らず)この世に戻ってくると考える生徒たちが多くいます。
まず、大きく分けて、二つの選択肢があるかと思います。聖パウロが先ほど読んだ聖書箇所で書いた「この世の生活だけに望みをかけ」ることと、今私たちが目で見えるこの世以上のものを信じることに分けることができます。
輪廻転生の考えは古代ギリシアにも古代インドにもあり、世界でも多く見られる考え方であります。何度もさまよいながらも、この世をめぐると言う考えだけではなく、ヒンズー教でも仏教でも「」(カルマ)と言った考えがあり、自分の今の行いが次の転生に繋がっていくことをいいます。古代ギリシアのプラトン的思想でも古代ヒンズー教でも、その輪廻転生から抜け出すことが幸せへの道であると考えられていました。多くの場合、現世の未練を断ち切り、身体そのものを無くすことによって苦しみやこの世の不正から、「救われる」というより「逃れられる」と考えられています。
キリスト教の復活は、それとは異なるものです。身体から逃れるのではなく、新しい身体をもち、この世界そのものが最終的には最後の裁きの日を経て神により新しく作り変えられると信じられています。イエス・キリストの弟子たちは、イエスが十字架に掛かり、死んだとき、一人残らず逃げ去りました。イエスと一緒に死のうと思った弟子はいませんでした。逆に、イエスが死ぬことにより、彼らはそれまであった信仰と希望をすべて失いました。イエスが復活すると信じた弟子たちはいなく、目の前に復活したイエスが現れるまで彼らは復活のことを信じませんでした。それでも、復活したイエスが幽霊であると思った人もいれば、イエスが現れたことそのものを否定する人ももちろんいました。しかし、確実に言えることは、それまで臆病で信仰のなかった弟子たちがいきなり勇気をもってイエスが身体ごと復活したことを言い伝え始めたということです。そして、だれが止めようとも、迫害しようとも、そのことを伝えたのです。イエスの弟子たちを、当初、誰よりも熱心に迫害したパウロは、復活したイエスと対面し、彼も人生が一瞬にして変わりました。その回心したパウロが書き残した手紙の一つから今日のチャペルアワーで読みました。
死後のことについて、「各自願っているようになりたい」と言った生徒と共感する面も自分にはあります。それぞれ願っているようになれば、みんなが幸せになれるのではないかと思うかもしれません。しかし、そのようなことは同じ地球に生きている人間にとっては最終的には感情論に過ぎないのではないでしょうか?その上、どんな悪事を行った人でも死後のことが自分の願うようになるのであれば、それこそ被害者だけが損をする正義も救いもない世界になるのではないでしょうか?また、個々願うようになれば、ただ単に居なくなってしまう人も多くいることになるでしょう。同じ世界を生きている私たちは、国や文化や宗教、また個々の想いにより、異なる死後を待っているとは考え難いです。いま生きている私たちが同じように死に、同じようにその後扱われるのであれば、何か一つの教えが正しいということになるのではないでしょうか。
皆様は「パスカルの法則」や「パスカルの三角形」を学んだことはあるかと思います。17世紀フランスの数学者であったパスカルは神の存在に対しても理性を働かせたアプローチを取りました。『Pensées』の§233で彼は次のように書いています。“Dieu est, ou il n’est pas.”(「神は存在するかしないかのどちらかである。」)復活に関しても同じことが言えます。(”La résurrection est ou n'est pas.”)イエスの復活に関しても同じく、そうであったかそうでなかったかの二択しかありません。パウロの書いた手紙では明らかにその二択をコリントの教会に選ばせています。先ほど読んだ箇所を思い起こしてください。「キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。更に、わたしたちは神の偽証人とさえ見なされます。」
キリスト教が有意義なものであるかないかはすべてこの二択のどちらを選ぶかで決まります。パウロが書いたように、「イエスが復活した」と言い伝えるわたしたちは、実際に復活がなかったのであれば、神が復活させたと言っているので、「神の偽証人」となります。先ほど名を挙げたパスカルは、このようなことを考えるなかで、わたしたちにある賭けをすることを提案しています。神がいるかいないか、イエスが復活し、わたしたちも復活することが本当であるかないか、これに関して賭けをして見ようではないか、とパスカルは呼びかけます。そして、本当であれば、わたしたちはすべてを得ることになるでしょう、と言います。聖書の神が本当に存在し、わたしたちの罪を赦すことができ、わたしたちを復活させ新しい身体を持って天国へと導くことができるのであれば、その神を信じることによってすべてを得ることができると言うのです。かりに、そのような神が存在しなくても、また、復活や天国がなくても、わたしたちはそれを信じることでなにか失うわけではないでしょう、と言います。「si vous gagnez, vous gagnez tout; si vous perdez, vous ne perdez rien.」(『Pensées』§233)これを「パスカルの賭け」と言います。
かりに、わたしたちがこの世の生活だけに望みをかけて生きたあと、神と対面したとすれば、わたしたちはどのように神にそれまで歩んだ人生のことを弁解することができるのでしょうか?かりに、復活を信じないで輪廻転生を信じたとして、その後、永遠の命と永遠の死を裁く神に対面するとしたら、わたしたちはどのようにそれまでの信仰を説明するのでしょうか?しかし、神とイエスの復活を信じて生きる人が死んだのち、消え去るのであれば、何の不利があるのでしょうか?また、神を信じ、イエスの復活を信じて生きる人が輪廻転生をしたところで何の損があるのでしょうか?そのことをパスカルはわたしたちに問いかけています。信じることによって絶対に損はしないが、正しければ永遠の命を得ることができます。「si vous gagnez, vous gagnez tout; si vous perdez, vous ne perdez rien」と言うのはそういう意味であります。
もちろん、このような損得で決められることではないことはパスカル自身もよくわかっていました。しかし、数学者であったパスカルは、人間の魂が無限と永遠のものに向けられていることもよくわかっていました。数学にかぎらず、人間が追求する知識は無限にあり、人間が求める愛はいつか終わる愛ではなく、永遠に続く愛であります。古代から、数学は神の学問とされていた理由が二つあります。無限のものを扱うため、そして、この世には存在しない完璧な概念を扱うためであります。人間の心と思いはどうしてもこのようなものに向けられていますし、人間が他の生き物に優る理由も、無限と永遠を追求する理性があるからではないでしょうか。つまり、この世のものだけで人間の心と魂が満たされるとは到底思えないのです。
私としては、復活について確信を持って人に伝えられるようになったのは病院のチャプレンとして働き始めてからでした。それまで、復活を信じていなかったわけではありませんが、必ず証拠や根拠を求めるわたしは、2000年前の弟子たちの証言だけでは信仰の薄い自分としては少し物足りないように感じていました。フロリダ病院という大きい病院でチャプレンとして働いたわたしは、癌の病棟とICUを担当していました。癌の病棟では一人だけ臨死経験があった人とそのお話をすることはありましたが、ICUでは、臨死経験をした多くの人や、その話をよくしっていたナースなどとお話をする機会が多々ありました。臨死経験というのは、基本的には、昏睡状態にいる人、または心停止となった人のどちらかが経験するものであります。そして、臨死経験には二種類あります。自分の身体を外から見ている人と、この世界から離れて行く人の二通りの経験を指して使います。全員ではありませんが、この世からいったん離れて行った人の殆どは暗いトンネルのような場所を通って光に包まれた場所にたどり着くのです。そこから再び帰ってきた何人もの人たちと私は直接お話をすることができました。
これらすべてを重ね合わせたところで、わたしたちはなにを信じればいいのでしょうか?真理の探究をしているこの学校では、生徒たちにどう教えるべきでしょうか?イエスのことを書き留めたすべての人たちが神の偽証人であるか、そうでないかの二択をパウロはわたしたちに与えています。「パスカルの賭け」で復活のことを信じる人はいないかもしれませんが、賭けるとしたら、皆さんはなにに賭けますか?
父と子と聖霊の名によって。アーメン。
第2部:中学吹奏楽部 高校ジャズ研究会によるミニコンサート
曲目
- 中学吹奏楽部 年下の男の子(キャンディーズ)
- 高校ジャズ研究会 Autumn Leaves「枯葉」
- Chameleon(ハービー・ハンコック)
- 白玉楼階段の幻闘(東京アクティブNEETs)
2021年10月30日(土)~11月25日(木) オンライン講演会
会場:立教新座中学校・高等学校セントポールズスタジオ
講師:笠井信輔氏
オルガン演奏:佐藤雅枝
オンライン視聴数:第1部 233回/第2部 145回/第3部 156回
第1部 「がんになって、わかったこと」
【亀岡会長】
皆さま、こんにちは。立教新座中学校・高等学校セントポール会主催オンライン講演会をご視聴いただきありがとうございます。本年度、セントポール会会長を務めさせていただいております亀岡でございます。本来であれば、オンラインではなく、保護者の皆様に学校まで足を運んでいただき、講演会を楽しんで頂きたいところではございましたが、今年度はコロナ禍の状況に鑑み、講演会としては初めての試みとなりますオンライン講演会とさせていただきました。
講師には、息子同士が立教小学校で同じクラスだったこともあり、立教生の保護者として長らくご縁をいただいております、笠井信輔(かさい・しんすけ)さんにお願いしました。コロナ禍で、生徒、保護者の皆さまも我慢を強いられる毎日が続いておりますが、いつも前向きな笠井さんのお話は、きっと皆さまの心に灯をともしていただけるかと思います。
ここで少し、笠井さんのプロフィールを紹介させていただきます。
東京都世田谷区生まれ、1987年に早稲田大学を卒業後、フジテレビのアナウンサーに。朝の情報番組「とくダネ!」を20年間担当され、2019年9月末に33年間勤められたフジテレビを退社。フリーアナウンサーとなりますが。2ヶ月後に、血液のがんである悪性リンパ腫と判明。4ヶ月半の入院、治療の結果、完全寛解。現在、テレビ、ラジオ、講演、がん知識の普及活動、2020年の11月には人生の困難を乗り越えるエッセイ『生きる力~引き算の縁と足し算の縁』を出版されるなど、幅広く活躍されています。
今回の公演は、1部「がんになってわかったこと」、2部「夢をあきらめないで」、3部「質問コーナー」の3部構成となっております。笠井さんの体験談など、どなたにも興味を持っていただける話ばかりとなっておりますので、是非、すべての動画を最後までご覧ください。それでは第1部「がんになってわかったこと」どうぞ。
【笠井信輔さん】
立教新座の皆さん、こんにちは。笠井信輔です。三男が立教小学校に通っていたので、うちの息子の事をご存知の方もいらっしゃるかもしれません。これから、立教新座中学校高等学校のオンライン講演会、始めさせていただきます。まずは第一部、「癌になってわかったこと」、こちらからお話しさせていただきましょう。
私はフジテレビのアナウンサーとして33年間働いておりました、その33年のうち、20年間は『とくダネ!』という朝8時からの情報番組を小倉(智昭)さんと一緒に、初回からずっとやってました。まぁ本当に、あの1回ぐらいは見たことある方、いらっしゃると思いますけども、皆さんが生まれる前から、お父さんお母さんは、若い時から、私はずっと毎朝働いておりました。とにかくね、朝が早いんですよ、この20年間はもう早朝3時の朝迎えという形でタクシーが家の前に迎えに来ると、バスも電車も動いてませんから。それに乗って会社に行くという状況で、まぁ眠たいですから、朝2階で起きてからリビングにもどこにも行かないで、トイレだけ行って玄関から出ていくと。ほとんど起きてから10分もいない状況で、誰も起きてきませんので、こっそりと会社に行くというようなことを繰り返しておりました。計算しましたら、朝迎え朝3時のタクシーに乗った回数は5000回を超えております。特に、今考えるとクラクラするんですけれども、特に12月から1月の真冬の午前3時は本当に地獄でした。もうね、ベッドから出たくないという日ばかりでして、寒いので。まぁ、もう寝ぼけたまんま会社に行くことも多かったですね。特にいろんなことありましたけども、一番覚えているのは、朝起きて寝ぼけまなこで、タクシー乗って会社行くと、アナウンス室に大きな鏡があるんですよね。我々、出演者ですから 、チェックするための。会社入って姿見見てびっくりしたのは、中学校2年の長男の制服を着ていたんですよ。いやあれは驚きで、バッジに「2A」とか書いてあって、長男、体が大きいんでわかんなかったです。私の背広と長男の制服と並べてかけてあったんで。それで慌ててもう一回戻って、そのまんま家でもう一回着替えなおして行く、というそんなことがありました。一時間位遅刻しましたけども、そんなこともありました。5000回のうち、交通事故には2回遭いました。タクシーに乗っていても交通事故あるんで、救急車で運ばれたりしました。いろんなことがありました。
で、小倉さん毎朝毎朝、同じような時間に朝起きて、会社に行って、二人で一緒に働いてるんですけども、だいたい、二人とも平均睡眠時間は、3時間から4時間、やっぱりいろいろやることあるんで、11時から12時くらいに寝るわけですよね。それを20年間続けていたら、まぁ、2人ともがんになっちゃったという。小倉さんは、2018年、膀胱がん。おしっこするとこですよ。そこを全部取りました。全摘出、がんになって。私は、悪性リンパ腫という血液のがん。血の中にがんが生まれてしまって、全身がんというそういう状況で、もう本当にステージが0から4まであるんですけども、私は一番悪い「ステージ4」ということで、最悪でした。正式名称は、「びまん性大細胞型 B 細胞リンパ腫」という、ちょっとあの普通じゃ治らないんじゃないかな、っていうような病名なんですけれども、告知の瞬間は、「あなたはがんです」と言われた瞬間は、「なんでオレが?」、「なんで今?」と。会社を辞めてフリーアナウンサーになって、タレントになってこれからという時に、もう半年先までこういった講演会が40件も決まっていて、「働きながら治療は無理です。入院して下さい。最低でも4ヶ月。復帰まで1年かかるかもしれません。」なんて運の悪い。そして、「全身にがんが散らばっていて、遺伝子異常が見つかって、脳にも転移しやすいタイプで、普通の治療方法じゃ治りません。」と悪い情報ばかり出てきて、「もう死ぬの?」と思ったのが、その時でした。息子が3人いますけれども、高校生の皆さんの友だちの立教生もいまして、まだ高校生いるのに死ぬわけにはいかないんだよね、というそういう状況でもありました。
いっしょにその告知のことを聞いたのは妻なんですけども、私は家、帰ってきてから涙しましたが、妻はですね、まぁあんまり大きい声では言えないんですけども、非常に泣き虫なんですよ、ちょっとのことで泣くんですよ。だから、息子たちから「また母さん泣いてるよ」って感じなんですが、この私のがんに関しては、もうあれから告知受けてから1年半以上、経ちますけども、2年ぐらいになるのかな。1回も泣いたことがありません。「頑張って大丈夫よ。乗り越えられるわよ、しっかりしてよ。」と励ましモードで、いつも笑顔でそこに救われました。いっしょにメソメソ泣いてくれたらうれしいという思いはあんまりなくて、私、そうすると崩れ落ちてしまうので、結婚30年で妻もそこはわかってくれていたのかなと、とてもありがたく、子どもたちも一生懸命励ましてくれて、三男は、卵焼き、料理なんか作んないんですよ、でも、入院中、卵焼き作ってきてくれて、「え、料理したの?」って食べたら、妻の味じゃないんですよ。私の母の味。「どうしたの?」って聞いたら、「おばあちゃんのとこ行って、習ってきた。お母さんよりおばあちゃんの方がいいでしょ。」って。いや、ちょっと感動しましたよね。がんになってうれしくはないですけれども、がんになったからこんな体験できるんだなってことをいくつも体験しました。
先生からは、「がんの原因は、悪性リンパ腫は解明されていないので不明です。」と、「遺伝でもなければ食生活でもないし、働き方でもない、交通事故にあったようなものです。」と言われましたけど、私はがんになった理由はわかっておりました。それは働きすぎ。睡眠時間3時間で20年間ってのは、どう考えても、あなたの働き方は間違ってますという審判が下ったと、そんなふうに考えております。まぁ、結婚当初はね、家族のために働くとか子供たちのために一生懸命働くとか言ってましたけども、子供たちが大きくなって、やっぱり自分のサラリーマン生活のアナウンサー生活の終わりが見えてくると、もっと自分のスキルアップをしたいと、もっとできるはずだってことで仕事に打ち込んでおりまして、家族のために働くんだったら、家族のために休むことも必要だったとがんになって初めてわかりました。結局、日本人というのは、法律で働き方を制限しないと、昭和人間は働いてしまうんだってことがつくづくわかりました。
入院して4ヶ月間、基本的に治療法は抗がん剤治療しかありません。猛毒を体の中に入れていって、劇薬なのでがん細胞が死んでゆく、そういった治療法です。血液のがんに関しては、これは悪性リンパ腫として白血病も仲間なんですけども、白血病も同じ治療法です。で、当時はもうステージ4で全身が痛かったので、あちこち痛くて、もう車椅子に乗ってないとちょっと入院できない状況だったものですから、痛みを抑えてほしいって、先生お願いしたんですけど、抗がん剤はがん細胞診を死なせていくんですが、あまりにも劇薬なので、良い細胞も死んでいくんですよ。この良い細胞が死んでゆくのが副作用となってきまして、効果はてきめんでありました。どんどんがん細胞がなくなっていって、人よりも大量の抗がん剤治療を行ったので、大量投与があったので、その抗がん剤はきついものでありました。ただもう自分、自暴自棄になったら絶対にいけないと、負けるもんかと、そこには立ち向かっていきました。「副作用にはどのようなものがあるんですか?」といわれるんですが、とにかくいろんなものがある中で、代表的なこちら、本当にもうお話の通り、全部、髪の毛が抜けるんですよ。こんな風にツルツルになりまして、『一休さん』のドラマに出られるんじゃないかってくらい、綺麗な頭になりますけども。ここまでは覚悟してました。でも、眉も抜けるんです。驚きました。噂には聞いていたけど、入院して4ヶ月目にようやくやっぱりホントに抜けるんだって、あまりにも人相が悪くなって、やっぱり、これが本当に「組」の人みたいになるんで、「これ、誰かに似てるな?」って考えたら、そう俳優の六平直政さんにそっくりなんですよ。六平さん、仲がいいんで、この写真、使わせてもらいましたけども。でも、あんまりにも自分が衝撃で、これイヤだったんで、眉メイクしました。男性のがんの抗がん剤治療を受ける人、やっぱり、眉メイクする人、多いんですって。髪の毛、抜けてもショック受けなかったんですけれども、眉抜けるのはホントにショックだったんで、見よう見まねで、ちょっとお絵かきみたいになりましたけど、それでも、ないよりはいいんですよ。
代表的な副作用は倦怠感です。とにかく何もしたくない、起き上がることもない、寝ていたい、体がだるい、きつい、そうやって厳しい状況を乗り越えていくと、これは6回にわたって写真がありますけども、私は基本的には4クールから6クールなんですけども、大量であれ、少量であれ、一回抗がん剤投与を受けると、2週間体を休ませます。体が元気になってきたら2回目。また体が元気になったら3回目ということを繰り返し、一回につき、通院の人もいますし、一泊二日入院して帰ってくる人もいますが、私は大量なので、5日間24時間連続投与、全部で720時間、抗がん剤を体の中に入れましたが、それによって、がんはすべて4ヶ月半の入院でなくなりまして、今、私の体からは「完全寛解」といって、がんが全くない状況が1年以上続いております。本当に今の医学は進んでいるなと、ありがたいなと思います。その他には、食欲不振とか、味覚障害とか、口内炎とか、手指の痺れとか、本当にいろんなものがあるんですけども、爪が切れなくなるんですよ、ここまで、パチンってできない。ペットボトルのふたが開けられないんですよ。今は簡単に開けられますよ。これが開けられないくらい、握力が40ちょっとあったのが、10くらいになりまして。それぐらい、抗がん剤っていろんなとこに影響して、結局、看護師さんにお願いして、「すみません、開けて下さい」って、情けない状況になりましたけれども、それも退院して1ヶ月くらいで元に戻るんですよ。髪の毛もですよ。未だに、「カツラですか?」って言われますけれども、これはもう地毛です。眉も全部自分のです。前よりも濃くなりました。髪の毛は、ほとんどの方がいったん天然パーマになります。私もストレートだったのが、天然パーマになりました。本当にね、いろんなことが起きるんですよ。でも、がんがなくなるんで、どんなことが起きたってやっていきます。
重大な病気になってしまった時、これはやっぱり自分の気持ちを支える精神的支柱といったものが大切になります。それは何かと言うと、私の場合はやっぱりフリーになったばっかりで、このままじゃ終われないと、「笠井アナウンサー、フリーになったら、がんになって消えていったね。」と思われるのがホントに悔しかったので、絶対に戻ると、自分を支える精神的支柱は2つの言葉がありました。1つは「己を鼓舞しろ」。もう1つは「引き算の縁と足し算の縁」。
入院中に、漫画の『鬼滅の刃』。当時17巻、全巻大人買いして Amazon で病院に運んでもらいました。 Amazonってどこでも届けてくれるので、病室まで届けてくれました。
普段、マンガは一切読まないのですが、子どもたちは好きで読んでますけど。一切読まない、でも、せっかく入院したんだから、入院期間中にこれをやりました、ってことを何かやろうと思って、やっぱり外の世界の流行り廃りに乗っかっていこうと思いまして、「『鬼滅の刃』は売り切れで大変」っていう話だったんで、Amazonで値段高かったんですけれども、大人買いしました。それで本当驚いたのは、信じられないくらい、励まされました。主人公の炭次郎のセリフに「己を鼓舞しろ」というのがあって、何度も出てくるんですが、辛い時に他人から頑張れって言われるのは余計なお世話だと思う人いるかもしれません。東日本大震災の取材でもよく言われました。「笠井さん、もう頑張っているんだから、頑張って言わないでくれ」って。それ言われた時からスタッフとも、頑張れっていうのやめようねって、決めたぐらい、頑張れって言葉、結構気を遣い、だけれども、だからこそ、自分で自分にエールを送る、それが自己肯定感へとつながって、挫けそうな自分を支えることに繋がっていくんですよ。この T シャツ見てください。ジャンプショップの公式ショップで売ってる、こんなTシャツあるんですよ。「まっすぐに前を向け。己を鼓舞しろ。頑張れ、頑張れ。俺は今までよくやってきた。俺はできるやつだ。そして、今日も、これからも、折れていても、俺が挫けることは絶対にない。」このセリフがプリントになっているんですよ。「己を鼓舞しろ」っていうのは、人に言われたらパワハラですよ。令和の時代は。でも、皆さんのお父さんお母さん、例えば『巨人の星』。星飛雄馬のお父さん、星一徹が「おまえは巨人の星になるんだ」と、まぁスパルタで、いろんな事罵詈雑言飛ばして、涙しながら星飛馬は頑張る。そして、『あしたのジョー』。セコンドの丹下の親父さんが「立て、立つんだ、ジョー」。ボロボロになって倒れているジョーに向かって命令して、それで立ち上がっていく。それが昭和の人気の漫画のありかたでした。それもお父さん、お母さん、みんな知っている。でも、今それはみんなパワハラだって言われて、やらなくなったの。だとしたら、皆さんは、自分で自分を鼓舞するんですよ。自分で自分を、負けそうなとき、そんな時に自分で自分を鼓舞すると、負けず力が湧いてくるそのことを私、抗がん剤を受けながら入院している最中に学びました。でもね、皆さんにも試してもらいたいんだけど、これって普段から前を向いて努力している人にしか効かないことがある。何にもなくダラっとしている人が、己を鼓舞しようと思ったって、鼓舞する元がないから。やっぱり前を向いてる人、向き合ってる人は、ここまで頑張って、いや、もうだめかもしんないっていう時に、いや、まだ俺は頑張れるはずだ、ここまでやってきたんだもん、私がここまで頑張ってきたんだもん、だからもう一つ頑張ろう、それが炭次郎の「己を鼓舞しろ」なんですよ。そういう人に聞く言葉なんで、そこ、みなさんも意識していただきたいなと。
そして、もう1つは「引き算の縁と足し算の縁」。これ、東日本大震災の取材に行った時の映像なんですけども、黄色い矢印が私です。これ震災の2日目。仙台なんですけど、めちゃくちゃな状況の中で、海がすぐ近くにあるなと思ったら、本当の海は鉄塔が遠くに見えてその先に何となく松林のようなものが見えますでしょ、ここが海なんです。海岸線。つまり、私のいる所から4キロ先まで、全部水没している状況。その中でとにかく被災者の皆さんは、あの人が亡くなってしまった、あの人と生き別れた、指折り数えて引き算のようにして失った縁を数えていました。で、涙しながら語っていた人たちが2週間ぐらいすると、私、現地に1か月くらいいましたので、ずっと取材している中で、1週間くらいすると、避難所に友だちができた、病院で先生と看護師さんと出会えた、ボランティアの人と知り合いになれた、そして、「津波が来たから笠井さんに会えた」という人まで出てくるようになりました。こういう人から復興の中心人物になっていったんですよ。どん底に落ちた時、もうダメという時に、スイッチを切り替えてそこで起きたこと、出会ったこと、出会った人を自分の中に取り込んでいって、力づけしていくという、そのスイッチの切り替えがとっても大事。
今、コロナの中で、皆さん、本当に苦しい状況だと思います。でも、コロナだからこそ、こういう体験をした、こういう人とネットで繋がった。何でもいいんですよ。そういったものを取り込んでいって、皆さんの力づけにしていくことで、次のステージが見えてくる。私も入院中、やっぱり SNS をやりながら、応援してくれた人、あるいは病院で知り合った人、そして、「患者会」というものに入って、同じがんの仲間と出会って、50歳過ぎてこんなに友だちが増えると思いませんでした。仕事仲間の延長線上で終わると思ってましたから。がんになったことで、交友関係が一気に広がりました。いろんなことが起きるので、最悪のことが起きた時に、これでもうおしまいだではなくて、私はがんになったからこうなれたって人生をこれから歩もうと、初めは死を覚悟していましたが、入院中に気持ちを切り替えることになり、それが何とかうまくできました。なので、皆さんもいろいろと苦しいことがある、受験も迫ってるし、コロナでクラブ活動もできないし、何でオリンピックだけやってんだと思うかも知れないですけど、そういった時に、今、経験した事を皆さんの逆に力となるようなものに取り込んでいってほしいと思います。そろそろお時間となりました。「がんになってわかったこと」、第1部、この辺で終わらせていただきます。ありがとうございました。
第2部 「夢をあきらめないで」
【亀岡会長】 立教新座中学校高等学校セントポール会主催、オンライン講演会第2部をご視聴いただきありがとうございます。第2部も引き続き、笠井さんにご講演いただいております。また、第1部「がんになってわかったこと」、第3部「質問コーナー」もありますので、まだ見てない!という方は、ぜひそちらの動画もご覧ください。それでは、第2部「夢をあきらめないで」、どうぞ。
【笠井信輔さん】
立教新座の皆さん、こんにちは。笠井信輔です。第1部の「がんになってわかったこと」、ご覧いただけましたでしょうか。まだの方は、ぜひご覧になってください。これから、立教新座中学校高等学校オンライン講演会の第2部「夢をあきらめないで」、こちらをお話しさせていただこうと思ってます。立教新座中学校高等学校の皆さんは、自分の将来のことについて、今、どんなふうに考えていますでしょうか?夢や目標は何か持ってますでしょうか?。私はちょうど中学校、高校、特に、高校時代にもう、テレビ局で働きたい、アナウンサーになりたいという夢を抱いていまして、テレビに出たいという気持ちを強く持っておりました。公務員、銀行員、商社マン、サッカー選手、小説家、芸能人、お医者さん、弁護士、本当に、世の中にはたくさんの仕事がありますけども、自分のなりたい仕事に就けるということは特に、人生、こんなに幸せなことはありません。それは、大人になると、本当によくわかります。ただ今は特に、中学生の皆さんは、将来、これになりたいとか、これになろうとか、そんな決めることはできないと思うかもしれません。夢をみる、あこがれる、ただ、それだけで、それはそうですね。高校3年生でもこれからまだどうしていいかわからないという皆さんもいるかもしれません。ただ、皆さんの人生の選択はもう始まっています。
それだけで前に向かって、将来を見据え始めているということになるんです。早い段階から夢に向かって、目標を持って生きるということは大変だけれど、実は、充実した学校生活を送ることにつながってきます。その職業に就くために今、自分は何をしたらいいのか見えてくるんです。もちろん、今の仕事の希望、夢、そういったものは最終決定ではありません。
ただ、今、中学生の自分は、高校生の自分は、こんな大人になりたいんだ、こんな仕事をしてみたいんだ、そんなふうに、夢や希望を持つことは、とても大切なことで、皆さんには、ぜひとも「夢は叶うんだ」ということを知っていただきたいと思います。確かに、みんながみんな、夢が叶うわけではないというのは、現実的に考えればそうなんですけれども、ただ、叶う人はいるんですよ。どこ見てもわかるように。その仕事に就いている人はいるんですよ。だから、その夢を叶えるために、どんな風に過ごしていけばいいのかということを、ちょっと話したいと思います。スポーツ選手や芸能人、小説家といったある種、個性的な仕事につきたい人の生きる道というのは、様々な方法があります。ただ、基本的に多くの皆さんが会社に入って、そこから自分の人生を歩んでいこうという人が多いと思うんですね。そのどんな職種の会社に入るのかというところに希望がある、銀行系、マスコミ、出版社、いろいろありますでしょ。その会社に入るというあこがれ、希望、そこをうまく皆さんの中で生まれてくるといいなと思うわけです。
私がやってきた局のアナウンサーというのも、芸能人のように思われたり、扱われていますけれども、基本的には、テレビ局の社員、サラリーマンです。私もフジテレビでアナウンサー試験を受けて、フジテレビのアナウンサーになって、33年間働いておりました。詳しく言えば、日本テレビとテレビ朝日のアナウンサー試験には落とされました。ダメかと思いましたが、フジテレビがその後、運良く拾ってくれたということです。幸運の持ち主という言い方もできると思います。東京のテレビ局のアナウンサーになるには、4年制の大学を卒業するという条件があります。それをしないと、アナウンサーにはなれません。ただ、何も、とても喋りの上手い人が採用されるというわけではないんです。とても喋りの上手い人は、実は、東京のテレビ局よりも、地方のアナウンサーになったりすることが多かったりします。個性的なその局らしいアナウンサーなるには、未完成の人の方がいいんですよ。完成された人が入ってきてみたら、いったんそれを崩さなくちゃならないんで、難しいんです。研修期間もたくさんありますから、フジテレビらしい、テレビらしさを身に着けたアナウンサーになってもらえればいいんですよ。完成したアナウンサーは、地方局においては、研修期間はないし、人もいないので、すぐに、入社前から天気予報読んだりするんですよ。だから完成された人が入っている。そんな実情もあったりするので、じゃあ、いったい何を見て試験をしているのか、これは、テレビ局に限らず、多くの会社はそうなんですけども、実は専門性という以上に、人間そのもの面接試験で見て採用する、そんなところが実は多いんですね。では、会社はいったいどんなところを見て採用するのか、人が面倒くさがることを進んでやる人。会議や学活で進んで意見を言える人。周りの意見に耳を傾けることができる人。何か人に負けないものを持っている人。積極性、リーダーシップ、協調性、独自性。こういったものを、会社は見ていきます。そして、私は最も重要なのはここじゃないかなと思ってます。芯の強い人。そして、少々のことでもへこたれない。ここを会社は本当に見てきます。
今の中学生・高校生は、立教新座の皆さんもそうでしょうけども、とても穏やかで、優しい生徒さんが多いです。うちの子たちを見てもそうです。しかし、一方で今の若い人たちは何か辛いことがあると、お父さんお母さんが考えるよりも簡単に諦めてしまう傾向にあると思います。それはどうしてかというと、世の中全体が優しくなっているからです。学校での体罰は禁止。先生方は厳しい指導は行いません。パワハラ、モラハラ、人に対してきついことを言うのはやめましょう。そういった道徳観が広がってるので、お父さんお母さんが育った時代、昭和時代のような荒波にもまれながら、子供たちが成長しているという時代ではありません。言ってみれば、今の若い子たちは、温室育ちなんですよ。立教生の皆さんは小学校からそのまま中学校高校、あるいは大学まで上がっていく人が多いので、完全な温室育ち。私の息子もそうです。良い友達の中、良い環境の中で、冷たい風とか荒波に揉まれた時に、では、いったいどれだけ耐える力があるの、そこが重要です。世の中ってけっこう冷たいんですよ、外の世界は。就職だけでなく、夢を叶えるということに関しても、この2つのポイント。芯の強い人。少々のことでもへこたれない人。というのはポイントになってきます。というのも、夢や希望を持ち続けることっていうのは、たやすいことではないからなんです。
私は高校時代に何をしていたのか。都立高校に通っておりましたけれども、中学・高校時代はバスケット部でした。レギュラーでしたけれども、高校に入るとみんな上手い人が集まってくるので、万年補欠でありました。基本、試合に出ることはできないで、10点差以上がついた時、最後の1分だけ出してもらえまして、「今日、出られるのかな?」、笠井と森永、本当にこの2人のどちらかだけが出られるんですよ。その1分間で、結果を出さなきゃいけないから、もう緊張して、絶対、失敗するんですけれども、「やっぱり、笠井、ダメだな」って話になるんです。けれども、絶対に辞めませんでした、部活は。ここは自慢できるんです。最後まで、卒業アルバムまで、みんなと映りました。
ただ、いろいろやりたい人間なんで、高校時代は、放送委員会という名の放送部にも入っていました。このスポーツと文化系の2つの部活の両立が、本当に大変だった。秋の文化祭シーズンになると、とにかく、放送委員会が忙しくなるんですよ。でも、バスケ部を連続で休むようになると、顧問の藍沢先生が廊下ですれ違った時に、もう忘れません。「おまえ、何やってんだ。おまえなんかバスケ部、辞めちまえ!」と、廊下で怒鳴られました。でも、私は「辞めません!」と答えました。「今が忙しいだけなんですぐ戻ります」と。途中で辞めると負けたことになるので、悔しいので、最後までくらいついていきました。昭和の人間なんですよ。そこは少しのことではへこたれないんです。
放送委員会では、もうメインメンバーとして、大活躍しておりました。放送委員会は、毎日、お昼の校内放送で、ディスクジョッキーの番組、音楽番組を作ってまして、当時、男子はディレクター、女子はアナウンサーと決まっていました。でも、私はどうしてもしゃべりたくて、1年我慢して、高校2年生の時に、先輩に、「どうしてもしゃべる伝統を覆してもらって、男でも喋っていい」と話して、私は、お昼の校内放送、都立狛江高校初の男性アナウンサーとして喋るようになりました。「ビッグフライデーミュージック」という番組を作りました。フライデーというくらいですから、金曜日のお昼の放送を担当させてもらっていました 。「NHK 放送コンクール」にも、放送委員会として作品を提出していましたが、私は、その中で、ラジオドキュメンタリーの「バッカス(酒神)はかく語りき」という、当時、高校生の飲酒問題、お酒を飲む高校生が多くて問題になっていたので、そこを取材してお伝えするという、もう「とくダネ!」みたいなことを、高校時代からやってたんです。自分でディレクターやって、台本書いて、取材をみんなで手分けしてやって、やっぱり、自分も出たいので、ドラマ仕立てにして、自分が出演するというシーンも入れて、ディレクターなので作りました。今日はその41年前、私が高校2年生の時に作ったラジオドキュメンタリーを引っ張り出してきましたんで、ちょっと皆さんにお聞きいただきたいと思います。
※録音音声
こういったドラマとインタビューと合わせながら、当時の高校生の飲酒事情を明らかにしていくという番組でありました。ちょっと滑舌が甘いんですけども、でも、高校生ですからね。まだアナウンサーになると決まってもいないし、ただ、やっぱり、こう、テレビ局に入りたいとか、テレビに出たい、人前で喋りたいとかっていう思いは、強く持っていたのがもう高校2年生でした。ですから、当時、薬師丸ひろ子さん主演の『ねらわれた学園』相手役募集というのがあったんですよ。かわいですよ、ひろこちゃん。でも、私、それに応募しました。友達から笑われましたよ。「笠井、無理に決まってんじゃん」って。でも、へこたれません。やってみなきゃ、わかんない!応募してみなきゃわかんない!ということで、やりたいと思ったら実行うつす。まわりが何と言ったっていいんですよ。結果は書類落ちですよ。第1次選考で落ちちゃって。まぁ、本当に夢は砕け散りましたけれども、それはそれじゃないか。
高校での文化祭は、本当、人気者でありました。クラスの出し物で、クイズ番組をやったりして、私が司会すると、教室に入り切れないくらい、もう生徒が集まって、もう大騒ぎで文化祭をやっておりまして、毎年、毎年、ちょっと有名でした。忘れもしないのは、高校3年生の進路指導、2者面談、生徒指導室で、担任の三沢先生と向き合って、「笠井、おまえ、大学どうしたいんだ?」って聞かれて、「早稲田に行きたいです」、「無理に決まってるだろ」と。それはそうですよね。バスケ部と放送部両方やってて、勉強なんかほとんどしてませんでしたもの。そしたら、先生が、「信輔は、大学にいくよりも、テレビに出ることを考えた方がいいんじゃないか」と、真剣に指導したんですね。体育の先生だったから、そういうこと言うんですよね。で、私の夢は、そこからふくらみました。友だちは、けっこう笑ってましたけども、真剣に、大人がテレビに出たいという自分の肩を押してくれるんだと、これはやはり愛なんだ、ってことを考えまして、大学受験して、全部落ちました。滑り止めも、ここなら入れるというところも全部落ちました。で、卒業アルバムにはこう書きました。「 卒業したらもう会えないなんて言ってないで、テレビのクイズを見てくれよ。そしたら、すぐ俺に会える」。当時は、みんなに笑われました。「笠井、何言ってんだ」って。でも、今、同窓会やると、今は(コロナ禍で)会えませんけど、「笠井、あれ本当だったね」って。
ちょっと前に、俳優の佐藤隆太さんにインタビューした時、この話になって、佐藤さんも「そうなんですよ。ぼくも卒業アルバムの『将来の夢』に『俳優』って書いたんですよ。だから、叶える人っているんですよ。」って。夢を持ち続けて、夢だったり、目標を持ったりしていることをバカにしてはいけない。本当にそう思います。つくづく思うのは、中学校時代は、自分は何が好きなのかといったことを、自分の中で見つける時期だと思います。高校3年生まできたけれど、まだわからないという人は、じゃあ大学にいって、それでもいいと思います。とにかく、学生時代の間に、何か、自分はこれが好きなんだ、面白いなとか、そういうものに出会ったら、すごい幸せで、そういったものに気づいた瞬間に通り過ぎないで、一生懸命取り組むことが大事。サッカー、野球、パソコン、アニメ、何でも構いません。でも、ただ楽しいだけでは身につかない。ゲームやってれば楽しいな、ただ、それだけじゃ、身につかない。そうじゃなくて、高い目標を掲げて、辛い中で続けてこそ、価値が出てくる。これを乗り越えて、それでもやってみようという、そういうところが大事で、例えば、中学校時代から、映画の大ファンでして、アナウンス室でも、私の映画知識を上回るのは「めざましテレビ」の軽部さんぐらいで、いや、軽部さんより俺のほうが上かな、というくらい拮抗しています。その始まりはまさに中学時代、中学2年生。映画館で映画を見たいということからお小遣いをためて、お正月のお年玉ためて、映画館行ってました。中学2年になると一人で映画館に行くようになりました。そこからはほとんど中高大、今でも家族でなく一人で映画を見ています。
歌舞伎町とか新宿とか行って、大きなスクリーンで見ると、ちょくちょくカツアゲされて帰ってきたんですよ。やっぱり治安が悪くて、そうするとついに母が「歌舞伎町には行くな、危なすぎて駄目だ」と、私が行くと言っても母が・・・だったら、これから見たら感想文を私に提出しなさい、そんなふうに私に命じました。中学2年の時。感想文書くなら見ていいんだったら「ああ書きましょう」ということで私、中学高校合わせて映画ノート5冊になりました。毎回毎回母に見せておりました。
映画の知識を中学時代からずっと溜め込んできました。今はそれが私の武器となって仕事に生きております。母には感謝しています。アナウンサーになってからは「男おばさん」という軽部アナウンサーといっしょの映画番組をもう21年続けています。130本以上の新作映画を見て、当然仕事だからタダで見ることが出来ます。高校時代の私に言いたいですよ。あんなにお金が無くて苦しんでて、試写会に応募して外れて、それがタダで仕事で見れるようになっているんですから。産経新聞にも今映画の連載を持って15年くらいやっております。書くということが仕事につながりました。そして東京国際映画祭という日本で一番大きな映画祭の総合司会もできるようになりました。皆さんにも好きなこと好きなものってあると思うんですよ。こだわりたい、これはやめたくないっていうものが・・・勉強も大事だけど、そういったことに熱中できる人は本当に幸せです、クラブ活動もそうです。皆さんは今、自分の武器何か持ってますか?あ、これ自分の武器になるんじゃないかなって思うものあるかもしれません。そういったものをそんな得意技が中学高校時代に見つかるといいなと思います。それが仕事に繋がる人も直接で言えば仕事のベースになる人もいます。今この仕事って関係ないんだけど、あの時のこれが生きてるなんて人もたくさんいるんです。
大学は全て落ちて浪人時代に猛勉強して早稲田に入ったんですが、まずはとにかく遊びたかったのでスキークラブに入りました。でも放送とか全然関係なく生きてたら、小学校時代の恩師の加賀谷先生のところに、早稲田に受かりましたって遊びに行ったときに「何やってるの?」「スキーやってます」と言ったら「信輔は何のために早稲田に入ったの?テレビ局に入りたいからそれに有利だからって早稲田を選んだんでしょ、マスコミに有利だと。だとしたら早稲田の放送研究会があるんだからそこに入らなきゃダメでしょ」と叱られました。そうかと思って、ずいぶん経ってましたけど放送研究会の門を叩いて放送研究会に入りました。またも放送とスポーツと二足のわらじを履いてとても忙しかったんですが、放送研究会に入っていなかったら、私はアナウンサーにはおそらくなっていないと思います。自分のこだわりだけでなく周囲の助け、助言、そういったものが自分の人生を作り上げていくということでもあります。だから今、中学校の先生とか高校の先生に指導を受けてる事って、大人になってから、あの時のあれってこれだったのか、って気づくことがきっとあるんですよ。怒られたりしたときは特に。この時はメチャクチャ怒られました。なぜ先生は助言してくれたのか、それは私がアナウンサーになりたい、テレビに出たいと周りの人によく話していたからです。こっそり夢を持ち続ける、もったいないこと。自分こんな風になりたいだって是非周りに話してください。親御さんにも先生にも。そうすると思わぬところから、「だったらこれどう」みたいなそういったアドバイス、アシスト、サッカーで言えばね。で、見事にゴール決めればいいんですよ。それには空いてるよって手を上げなきゃだめなの、こっそり良い位置に立ってても良いパスは回ってこないんですよ。そことっても大事なの。でも今の皆さん、学生さんって、もし夢が叶わなかったら恥ずかしい、みんなに笑われる。いいんですよ笑われて・・・僕はずっと笑われてた。で、途中で変わることもあるんですよ。「え、お前アナウンサーやりたいって言ってたのにいま弁護士なの?」いいんですよそれで、若いんだから。でも人に話すことが大事なの。周りに表明すること。そして気持ちが変わることもあるから、自分の心に耳を傾けることもとても大事です。一番良くないのは「別に」とか「特に」とか「面倒くさいし」「ウザイ」とか「どうせ」とかそういう言葉で自分自身と向き合わないこと。それが一番もったいないと思います。いま一生懸命クラブ活動やってる人、なかなか部活もできないかもしれないけども好きなものが見つかってる人、それに打ち込みたい人、あきらめないでほしいんですよ。夢を諦めることなんて簡単なこと。いつでもできる明日でも1秒後でもできる。そっちに向かないで・・・なぜかと言えば、夢を叶えた人って夢を持ち続けた人の中から出てくるからです。だから「芯の強い人」になってほしいし、「少々のことでもへこたれない人」になってほしいんですよ。私はアナウンサーになったのは運が良かっただけかもしれません。みんなに笑われて「アナウンサーなんて無理だよ」言われてても、アナウンサー試験を受けたからなれた。受けなかったらなれなかったんですよ。そこの分かれ道なんですよ。夢を持ち続けるってそういうことだと思っていただけたらなと思います。
フジテレビに入社して新人の時に、フジテレビは「病院へ行こう」という映画を作りました。その「病院へ行こう」の初日の舞台挨拶の司会に私は担当として新人の時になりました。その映画のヒロインは薬師丸ひろ子さんでした。打ち合わせの時に「笠井です」「薬師丸です」「よろしくお願いします」と薬師丸さんと握手をした時に、私が追いついたと思いました。夢は叶えることができるんです。是非とも皆さん夢をあきらめないで、そしてより良い将来が訪れることを祈っております。ここまででもう時間なりました。
ここからはもし可能だったら続けますけども・・・お父さんお母さん、うちの母はやっぱりすごいと思います。後になってから知ったことですが、やっぱり母はこれだけの映画を見てるんだから、記録に残さないと嘘だと思って、私を歌舞伎町に行かせたいのではなく、映画日記を書かせようということで、その命令をしたことがわかりました。あの経験が効いて今ではキネマ旬報から原稿を書いて欲しいと言われるようになりましたけども、全てはあの映画ノートが始まりでした。そしてもう一つ、私は小学校2年から中学2年まで歯科矯正を受けておりました。不正咬合で歯がめちゃくちゃだったんです、歯並びが。でも今から45年前ですよ、地方公務員で男の子3人育ててる、貧乏一家です。よく私に矯正を・・・審美歯科なんてないんですよ。毎週土曜日1時間以上かけて通ってました。それが嫌で嫌でしょうが無かった。だけれどもあの歯並びのままだったら絶対にアナウンサーになれてないんですよ。アナウンサー、歯並び見るんですよ、試験で。今は不正咬合治って、きれいな歯並びになりましたけれども、7年間かけて。「お金なんか絶対ない、どうしたの」と聞いたら、大人になってから教えてくれたのは、「お爺ちゃんに借りた」と。何十万というお金ですよ。子供の将来に対してうちの母2年生の時に私がそんなになるとは思ってませんけれども、子供の将来に対してレールを敷いて良いのかっていうのは、とても重要な問題です。もうすでに立教生になってる状況で、レールは敷かれております。それは子供が苦労しないために、うちもそうです。じゃあこれからどうするのかっていう時に、例えばオリンピック の選手とか、音楽コンクールの賞を取った親御さんとかに何人もインタビューしたことあるんですけども、本当に若い時からスパルタで子供にレールを敷いて、後はこれをやる運命ということで、戦いながら子供をその立場に持って行ってます。でも果たしてそれが家でもいいのかってそこの答えを出すのほんと難しいんですよ。うちも3人子供いて2人はもう大きくなりましたけどもなかなか・・・なかなかうまくいっているとは言えない、やっぱり、こうやって話してますけどね、だいたい自分の子供は自分のこういった話ししても何にも響きませんから。かえって「うざいよ父さん」ってなっちゃいますんで。そこは難しい。でも自分の子供が「これがやりたい」ってことがあった時に、私はある時、次男に対して「いや、そんなの無理だよ」とやっぱり言いました。「それじゃあお金は稼げない」と。でもその時妻から「いや、それを潰してどうするの」と怒られました。やっぱり応援してあげた方がいいんじゃないかと・・・結局、次男は大学3年まで「父さん俺何やればいいと思う?俺何すればいいの?」ってずっと聞いてました。まぁなんとか就職できましたけども。親が理解しにくい方向に子供が進みたいと思った時、でもその子はそれをやりたいと思ってる時、じゃあどうどうするのか・・・今では自分はやっぱりそれも人生なのかなって思って応援しなきゃと言う思いに至ってますけれども、それは皆さんのそれぞれのご家庭、「ここまで立教生頑張ってきたのに、あなたこっちに行くの」っていう・・・そこをどう判断するかってすっごい難しいと思います。家でも答えは出ません、やっぱり。いつも妻とは喧嘩になっちゃいますけど。でも子供が「こうしたい」って思えるってとても大切な事っていうのは、次男を見ててやっぱり思います。なので、やっぱり令和時代の子育ても大変だなという風に思います。皆さんと同じような立場で、実はここでしゃべっていても、思い悩んで夫婦で意見が対立しているのも我が家の実情だということであります。少し長くなりましたけれども是非とも皆さんのお子さんの将来、我が子も含めて良いもので ありますように。
本日は誠にありがとうございました。
第3部 「質問コーナー」
笠井信輔(笠) 進行:亀岡正博(会)
立教新座中学校高等学校セントポール会主催オンライン講演会第3部をご視聴いただきありがとうございます。
第3部では生徒保護者の皆様からの質問を笠井さんにフランクにお答え頂いております。本校チャペルの紹介と合わせて和やかな雰囲気でのトークをお楽しみください。
それでは第3部質問コーナーです。
会:笠井さん第一部第二部とご講演いただきありがとうございました。第1部「がんになってわかったこと」第2部では「夢を諦めないで」というテーマでお話をいただきました。まだご覧になられていない方はですね、是非そちらの動画もご覧ください。
笠:よろしくお願いします
会:本日の撮影ですけれども、このような状況を鑑みましてマスクを着用させて頂きたいと思っておりますのでご了承ください。さて、第3部は場所を変えましてこちら立教学院聖パウロ礼拝堂から、質問コーナーとしてオンラインにてお送りしたいと思います。笠井さんこちらのチャペルはいらしたことありますか?
笠:いや、初めてです。立教新座自体初めて伺ったんですけれども、立派なところですね。パイプオルガンも凄いですね。驚きました。
会:こちらのチャペルなんですけれども1963年に建てられています。普段の礼拝だけではなく教会音楽を中心としたコンサートなども開かれているんです。その礼拝やコンサートでも使用されている、今、お話がありましたパイプオルガン、あちらがですねアメリカのフィスク社が製作したフランス様式ロマン派のものでパイプ総数なんと、1786本あるそうなんです。
笠:そんなにあるように見えませんね。50本ぐらいに見えますね、そうなんですか。
会:礼拝の時にはですねその素敵な音色で私たちの心おだやかに包み込んでくれるんです。また外に目を向けますとあちらですね31メートルの高さにもなるベルタワーがありまして大中小3種の鐘が礼拝前に響き渡るのです。そしてこのチャペルの左側にはチャペル会館へとつながる五角形に作られた回廊があるんですけれども、実は上空から見ると立教の「立」という字に見えるように配置されているんです。
笠:へーそうなんですか。
会:なかなか上空から見るというのちょっと難しいかと思うんですが、
笠:考えられてるんですね。校章とかにも入ってる。
会:入ってますね。立教には様々な素敵な施設があるんですけれども保護者の皆様にぜひ一度お越しいただきたい場所のひとつだと私は思っております。さて、チャペルの紹介も無事に終わりましたので、本題に入りましょう。今回の講演会はSPOFの一環として立教新座生徒保護者教職員の皆様、また本校を志望する受験生の皆様にもご覧いただいております。第3部では生徒や保護者の皆様からたくさんの質問を寄せていただきましたので、時間の許す限り笠井さんに率直にお答えいただければと思っておりますので、どうぞよろしくお願い致します。
それでは早速最初の質問です。こちらは中学生からいただきました。「中学生の時にすでになりたい職業はありましたか?」という事ですが先ほどの講演の中でもお話があったかと思うんですけれども改めましてもう一度お伺いしてもよろしいですか。
笠:中学時代はテレビ局で働きたいなという思いはありました。ただアナウンサーという職種がまだよくわかってないので、アナウンサーを目指すっていう感じではなかったですね。テレビ出たいとか、本当にそれです、出たいとかね。あのテレビの中でしゃべってる人いいなぁとか、そういう憧れとしては感じてまして、ただ、もう小学校の時から地元のお祭りとかで子供司会者とかやってたんですよ。なので、人前に立って喋るところに関してはもうかなり慣れていたというか、それを好きでやっていた。それが自分の仕事に繋がるとまではイメージができていなくて、こうやってマイクでしゃべるのって面白いよねっていうことで、とっても積極的にやっていたので。で小学校の児童会長とか中学校の生徒会長とか、もうなんでなりたいって言ったら、マイクでしゃべれるからなぜか立候補してやっていたっていうそういう感じでした。
会:マイクでしゃべるということはアナウンサー以外にも色々あったかと思うんですけど、まぁアイドルになるだとかそういったところはあまり考えなかったですか?
笠:そういう感じじゃあなったですね。歌手になりたいとか俳優になりたいとかあんまりなかった。テレビに出たいってそれだけですよ。くだらないですけどそんな憧れがありましたね、中学時代は・・・
会:ありがとうございます。では、次の質問に移りたいと思います。
同じく中学生から「アナウンサーになろうと思ったのはいつですか?」ということなんですが、同じような質問ですね保護者の方からもいただいてまして、「人にものを伝えるアナウンサーというお仕事を笠井さんはいつから目指されたのでしょうか?またそのきっかけは?」ということなんですけれども、いつ頃どんなきっかけがあって目指されたのか。
笠:これは第2部で話しましたけども、放送委員会でいろんな番組を作っていくっていうことを毎週毎週私はビックフライデーミュージックっていうラジオ番組をお昼の校内放送で作ってました。やっぱりそこで皆に聴いてもらえる、皆が笑ってるだとかそういうところに喜びを感じていましたし、やっぱりNHKの放送コンクールでラジオドキュメンタリーを作ってそれを聞いてもらうことで、今の世の中の高校生の気持ちを伝えたいとかそういうのはありましたね。あの・・・とってもそこのあたりが、やっぱり人に物を伝えるって事の大きなきっかけだったのかなっていうのは思います。ただ、小学校の3年生だったかなぁ、多摩川の水害があって、「岸辺のアルバム」であったけど、お父さんお母さん知ってると思うんですけど、あの多摩川の家がどんどん流されていくってそういう水害があったんですよ。ちょうど小田急線のあの辺りで。で、うちの父親が狛江市役所に勤めてまして、水害があった直後に「信輔一緒に行くぞ、この災害を見ておきなさい」って、そのめちゃくちゃな多摩川の状況を一緒に2日目か3日目、見に行ったんですよね。で、川の中に家が建ってたりとか。そういうのを見て、親たちが何かそういう体験をこの子にさせた方がいいっていうことを、大人たちはやらせませんでしたから、人前でしゃべっている自分というものを意識してそういう指導をしていたのかなと思います。そういうのが一つ一つ積み重なってったって感じかもしれません。
会:東日本大震災の時に取材に行かれて津波の現場とか行かれたと思うんですけど、その当時の少しリンクする部分があったりしたんですかね。
笠:まあ・・・東大震災の時はもう本当にどうも現場行っても宮城の港町行っても、もうこの街は終わりだと、復活しないとしか思いませんでしたけれども見事に復活しました。ただその取材をする中で、「ああそういえば子供の時に見たなこれ」っていうのとは全然レベル違います。規模が違いますけれども、そういったことがフラッシュバックしたことはやっぱり現場ではありましたね。それはね。でも本当に自分自身がPTSDかかってしまったので、結構やっぱりなんて言ったらいいだろう・・・・あんなことを置きていけないし起こしちゃいけないしっていう思いしか今もありませんけれども・・・ただ取材通じて人の力というか絆の強さというか、そういったものを感じました。絶対この街は復活したいって街が復活してますからね高台に移転して、かさ上げしていくということして、人間の力ってやっぱり素晴らしいなっていう・・・そこはやっぱり復興この10年見てきて思うことではありますけどね。
会:ありがとうございます。では質問を変えまして、次の質問は中学生と高校生から頂きました。中学生からはですね「アナウンサーという仕事をするうえで常に自分の芯に持っているものはありますか」。また高校生からは「私は将来どのような形になるかわかりませんが物事を人に伝える仕事に就きたいと思っています。そこで笠井さんがアナウンサーとして伝える立場として心がけていることは何でしょうか」というところですけれども、第2部でも芯の強いことが大事というお話を伺いましたが、笠井さん自身がお持ちの芯に持っているもの、信念などをお聞かせ頂ければと思います。
笠:まず自分はアナウンサーとして喜怒哀楽を大切にしていこうということを常に取材中には思っていました。取材をした中でそこで得た感情というのは怒りなのか喜びなのか悲しみなのか、アナウンサーってどちらかというとそれを整然と伝えるということを良しとされている職業なんですよ。アナウンサーは泣かない、アナウンサーは怒らない、感情をあらわにしないっていうね・・・なんですけども自分は本当に自分の心が動くときにそれを封じ込めないアナウンサーでいようと・・・ですからどちらかというとちょっとアナウンサーの王道から外れたタイプのアナウンサーでして、その部分を自分の個性として大事にしていこうというのが自分の信条だったので・・・やっぱりかまないで、正しい音声で、正しいアクセントで、正しい発声で、滑舌よくしゃべる、それは必要なんですよ。でもやっぱり若いアナウンサーはそこに絡め取られてやっぱり正しく読もうとするんですよ、原稿をね。でもその原稿が訴えていることは何なのかという、経済のニュースであっても火事のニュースであっても殺人事件であっても、そこの感情の部分ってものを正しい音声で読むことに邁進していたら消えていくので、そこをしっかりと自分の中でどうこれを受け止めたのかということは出していくようにしないと、伝わらない。伝わるためには心が必要で正しい音声も大事だけどもそこに絡め取られすぎないというのが私の信条ではありました。僕はよくかむって有名だったんですよ。「アナウンサーなのによくかむって」って有名で評判が悪かったんですが、そこはそこって考えてました。だってしょうがないじゃん、感情を入れると噛んじゃうんだから。上手いと下手とかってのもあるんだけども、そこは自分の個性だと思ってましたので。あのいや、かまないように読むのがいいんですよ。良いんだけども感情は入れるときにそっちに行っちゃってかむって・・・まぁ今回の講演会でも結構かんでるんですよ、それ編集されてなかったらそのまま出てますけども、それは感情がね、揺れているせいで、つい力が入ってかんじゃうってね・・・まぁそれはしょうがないかなって自分では思っていて。でも本当のプロが、アナウンサーとしては王道行くのはそこじゃないんですけど、自分はそっちなんじゃ、感情の揺れをやっぱりそのまま出すことも大事って、それが私の信条です。
会:では次の質問にまいります。次の質問次も中学生から頂きました。
笠:中学生積極的だねー良いねー
会:そうですねー、「アナウンサーをしていて一番つらかった時期はいつですか、出来れば理由も教えていただけると幸いです。」はい、つらかった時期ということなんですが私的にもそのつらかった時期をどういう形で乗り越えてきたのかそれを伺いしたいと思います。笠:えっとつらかった時期っていう時期というのは結構難しいというか・・・なんて言うかな・・・本当の意味で言うとね、つらかったのはやめる1年ぐらい、2年くらい前からが一番つらかったんです。なぜかというと若い人たちがどんどん台頭してきて自分のしゃべる時間がどんどん減ってくる・・・特ダネ2時間出てて、最初の頃は30分毎日しゃべってました。最後の1年2年ぐらいはもう2時間出て1分とか2分ぐらいしか喋る機会がないんですよ。それはもう部下とか後輩の指導に当たっているわけ、そっち喋らすために自分の時間を作らない。それがつらかったですね、喋っていたいんですよね、基本。だから辞めたんですよね、フジテレビではもう喋る時間がないなって思って。だからそういう意味ではつらかったのは後半だけども、ただ仕事をしていく中で一番きつかったのは例えば・・・もう今から20年前以上ですけどもペルー大使公邸占拠事件。あのとき長男が2歳とかで、ペルーで人質事件が起きたからペルー行ってこいって言われて、1ヶ月ぐらい、いや1か月以上行ったんですよ。で、急にお父さんいなくなっちゃったんで長男チック症みたいになっちゃって、家族はみんな何か精神的に不安定になっちゃうし、そういう時にやっぱり申し訳ないなぁっていうような気持ちにもなるし。あと次男は体が弱くてちょうど次男が救急車で週に2回ぐらい運ばれている時に、アメリカの同時多発テロが起きて、行ってきてくれって、1番機でアメリカに飛ぶときに、妻から行かないでくれと。次男がこんなに苦しんでいるのになんで行くのって・・・自分でも世紀の事故であることが分かってるから、会社から命令出てるので、ここは行くって行ったんですけども・・・まあ2900人以上の人は亡くなっている中で取材して出てくるのは家族の絆の話ばっかりですよ。自分、家族の絆の話を伝えてるんだけども、自分はどうかというと救急車で運ばれている子どもをほっておいてここに来てるわけですよ。何やってるのかなっていうような、そういう感じではありましたよね。そういうようなことがやっぱりこの仕事してるとね、しょうがないんですけども・・・家族との向きあいといったものがやっぱりおろそかになっていくっていう実感が結構あるのが・・・その時はでもね、目に見えないというか事件とか事故にまっしぐらなので・・・東日本大震災時も1カ月ぐらいで帰ってきて、家で自分のニュースのVTR見ている時に自分が取材した男の子が1か月後に元気になってよかったなって元気になったじゃん、っていう取材を家で見ていたら、一緒に見ていた次男は、「父さんは僕たちより被災地の子の方が大事なんだね」って・・・中学生の次男に・・・・きつかったですよね。それはやっぱり、子供たちには「被災地に行かないで」ってすごい言われてたんです。危ないし、東京も怖いから家に居てって言われたけれど、「いや、向こうの人達困ってんだもの行くよ」って・・・もうそういうこと続いているとね、子どもたちはテレビやマスコミが大嫌いです。基本ブラックである、家族からするとね。人様からは褒められるんですけどもよくぞ1ヶ月も被災地で働いてくれましたって被災地の皆さんからも涙をこぼしながら喜ばれるけども・・・家は荒れます。だから辛い時期ってそういう時ですよね。
会:つらい時期を乗り越える何かモチベーションになったものだとかそういったものというのもありますか。
笠:いやそれはもうひたすら家族の批判を受け止めるということ、反論しないってことですよ。いや「すまん、すまん」って。
会:納得してもらうしかない。
笠:納得っていうよりも納得しないですよ家族は。それはこっちを説得しようとしてもダメなんですよね。「だってお父さんいなかったじゃないか」っていうだけの一言でもう終わりなんですよ。向こうはいかに大事だとか、いかに苦労してるのかとか、それがどんなに大切なものか、というのはやっぱり家族からするとなかなかわからないので、それは仕方がないというか、そういうものなんだとつまりそれは自分がそれを背負わなきゃいけないものであるから、だから帰ってきたら家族サービスに努めるとか、すごいそれを頑張ってやっているつもりなんだけど、それでもやっぱり次から次へ仕事がくるんで、結局お父さんは全然家族と向き合わないみたいな話になってくるんですよ。そこがやっぱりきついところで、そうだからすごいなんて言うのか・・・・乗り越えるっていうか乗り越えきれないんでそこはもうもう受け止めるしかないそういう定め、この仕事のっていうことで・・・まぁ、いつかは分かってくれるのかなみたいな部分とかね、でもなかなかねえ、家族からするとあなたはもっとできるはずです、もっと家族と向き合えるはずですと、お父さんはもっと家族と向き合えるはず・・・・自分がこうしたいという気持ちが強すぎるって言うところ、そこからはそれを言われますよね。だから今でもね、常に「いやここはちょっと家族のために」とか、そうやってなんとか自分自身をコントロールできるように頑張ろうとしているっていうのが現状ですかね。だから第1部2部で颯爽と話しているんだけど、意外と僕も聞き手に回りたいと思うんですよ。
笠・会:笑
会:それでは次の質問に移りたいと思います。こちらは保護者の方からいただきました。「今の中高生達に今何を一番伝えたいですか」
笠:それはもうあの第2部でも申し上げたように、自分の好きなことだとか、取り組みたいことだとか夢とか希望だとかそういったものをこの学生時代に見つけられたらいいし、今一生懸命やっていることがあるならそれを一生懸命やってほしい。いつか、それが変わるときも来るけども変わったら変わったで、また、その心の声に耳を傾けてそっちに進んでほしいという、自分が何していいかわかんないし、どう生きていいかわかんないしっていう状況の人がたくさんいると思うんだけどもそういう人は少しでも「あっ、これって僕いいかもしれない」といったものが見つけられると良いし、そういうアンテナも広げておいてほしいなということ。そして色々辛いことが多いので芯の強い人間になるようなやっぱり「何クソ」ってこと、「己を鼓舞するような自分で自分を励ますことができる人」であってほしいなという風に思います。
会:それでは最後の質問にまいりたいと思います。笠井さんの著書「僕はしゃべるためにここへ来た」の中でも触れられていて、「生きる力 引き算の縁 足し算の縁」のタイトルにもなっている、さらには第1部の講演でも触れていました「引き算の縁 足し算の縁」この言葉について、笠井さんにとってすごい思いがあるのではないかなというふうに思ったのですがどういう思いがあるのでしょうか。
笠:あの、とても良い質問をありがとうございます。第1部の方で話しましたけれども、引き算の縁足し算の縁という、東日本大震災の時に被災者の皆さんを取材していて、自分の中から生まれてきた言葉。人間って悪いことが起きるといわゆるマイナス思考で引き算のことばかり考えていくんです、まったくその通りなんですよ。自分もやっぱりがんになって思ったことは「あの仕事もダメこの仕事もダメ」って言うね、そういう引き算でしかない。でも被災地の人たちはその引き算を今だからこそ、この津波の後起きたことをどのようにして前に進むエネルギーにしていくかっていうことで、それを強く認識して自分の力にしていく。新しく生まれた縁といったものね。あの例えばそれってどういうことかというと志望する大学や高校に入れなかったとか、希望する会社に入れなかったなんていうのは今コロナの時代でたくさんあるわけですよ。そうしたときにあの学校もダメ、この会社もダメ、客室乗務員になろうと思ったら採用がないホテルマンになろうっていうのもあるんだけども。じゃあそういう希望じゃないところに入ったときにそこで生まれた縁といったものに絶対に自分の人生に良いことがあるはずなんです。そこで結婚する人だっているだろうし、そこで何か別の面白さを見つけることができるんだけども、俺は第一志望に入らなかったからダメなんだという、その引き算の縁だけで嘆いて生きていたらそこで生まれた良い縁を取りのがしちゃうんですよ。津波が起きた、家が流された、もうおしまいだ、けどそこに来たボランティアの人にいい人がいて、そこでいい友情が生まれたってことをプラスに取り込んでいけるのか、そことっても大事なとこで、それを被災地の皆さんはやってたんです。これだと思って。自分ももう死ぬかもしれないしステージ4で身体中痛いし普通の治療じゃ治らないって言われてるし、どんどん仕事がなくなっていく中で、いやここで自分がどん底の時に気スイッチを切り替えて、失われたような引き算にするんじゃなくて、ここで生まれた縁を足し算にしていかなかったら自分が10年間励ましてきた被災地の皆さんに笑われてしまうと思ったんです。だからここは歯を食いしばって今ここで起きていることを取り込んでいかなきゃ、前に行かなきゃ・・・そういうふうに考えたね。例えばねちょっと長くなるけど、パラリンピックがあってパラリンピックのあの車いすラグビーの車いすの調整しているメンテナンスの人がいて、その人がいるから日本の車椅子ラグビーってものすごく発展したという人。その人のインタビュー見たんだけども、なんで車いすラグビーのメンテナンスやってるんだ?って聞いたら、自分が競技をして骨を折って怪我をして入院して、入院した時に車いすラグビーの選手がいたんですって。友達になって、そこで終わるんじゃなくてその車椅子ラグビーの車椅子って面白いねっていうことから、それを自分の仕事にしいてった。つまり自分がどん底で骨を折って入院しちゃったっていう時に出会ったことを取り込んでかけるとか。コロナでどんどんどんどん飲食店が潰れている、この中で飲食店をオープンさせようって知り合いがいて、今オープンさせるの?今オープンの準備してるのって(聞いたら)、「実は今いいシェフが集まってきやすい」コロナだからこそ取り込める縁があるってことですよ。これも引き算から足し算への切り替えで、だからどん底に落ちている今自分ダメだなと思っている時ほどそこで出会った人とか絆って自分の次のステージに行くための大きなステップになるんですよ。なので本のタイトルにもなっているし、ずっと自分は何かあったら、だめなとき、この今こそ蓄えるときなんだって思って生きているんですよね。
会:さて、沢山の質問にお答えいただきましたが、そろそろお時間となりました。今回はオンラインではありましたが皆様いかがでしたでしょうか。笠井さんの話をもっと聞きたいという方はですね、先ほどにも先ほどの話の中でもちょっと触れましたがこちらの「僕はしゃべるためにここへ来た」「生きる力 引き算の縁 足し算の縁」などもございますので、ぜひそちらのほうもお読み頂ければと思います。
笠:ありがとうございます。
会:笠井さん最後までお付き合いくださりありがとうございました。
笠:ありがとうございました。
会:最後にご覧になっている皆様に一言なにかあればお願いします。
笠:立教という本当に良い環境の中で皆さんは育って来ていらっしゃって、あるいはお子さんをそこに通わせている中で本当にあの良い縁に恵まれながらここまできてると思うんですね。うちの子もまったくその通りなんですけれども、これから、ますますコロナの時代になって、みんな、生徒皆さんも苦労されると思いますけどもその苦労の中からやっぱり今この時代だからこそ得られることってあると思うんですよ。オンラインが発達してSNSも発達する中で、じゃあ自分はどんなふうにして何を取り込んでいくかということ意識しながら、嘆いてばかりいないで積極的にですね前に進んでいくという、そんな風に生きられたら素敵だなというふうに思っております。私もそんな風に考えて生きていきますのでともにですね歩んでいければと思います。今日はありがとうございました。
会:ありがとうございました。それでは皆様このような状況下ではございますが、笠井さんのように決して諦めることなく生きる力を持って前に進んでいきましょう。そうすれば夢は叶うと信じて。
以上
講師プロフィール
1963年 東京都生まれ。
1987年 早稲田大学卒業、フジテレビへ入社。
朝の情報番組「とくダネ!」を20年間担当するなど、アナウンサーとして活躍。
2019年 フジテレビを9月末に退社し、フリーアナウンサーとなる。
その2ヶ月後、悪性リンパ腫と判明。
4か月半の治療の末、「完全寛解」となる。
現在は、テレビ、ラジオ、講演、がん知識の普及活動、2020年11月には著書「生きる力 引き算の縁と足し算の縁」を出版するなど幅広く活躍。
趣味は、映画・舞台鑑賞
2021年10月30日(土) S.P.F. バザー
2021年度 セントポール会 リサイクル販売のご報告
保護者の皆様
セントポール会
会長 亀岡正博
バザー担当 副会長 宝地戸真美
新型コロナウイルス感染症の発生状況を踏まえ、10月30日にブレザーのリサイクル販売を無事開催することができました。販売数を上回る多くのお申し込みをいただき、抽選による販売となりました。 例年のS.P.Fでのバザーとは違う形ではありましたが、皆様のご協力に対し、御礼申し上げます。来年度以降も引き続きご協力の程、よろしくお願い申し上げます。 尚、売上金は以下外部団体へ寄付させていただきました。
献金先
- 日本ユニセフ協会
- 国際NGO AARジャパン
- あしなが学生募金
- 日本キリスト教団志木教会附属 泉幼稚園
2021年12月11日(土) クリスマス礼拝
会場:立教学院聖パウロ礼拝堂(立教新座チャペル)
第1部 クリスマス礼拝 15:00〜16:00
受付: セントポール会役員
出席者: 235名
司会: 蕪木副会長
会長挨拶:亀岡会長
皆さん、こんにちは。本年度、セントポール会会長を務めております亀岡でございます。
どうぞよろしくお願いいたします。本日はお忙しいところ、また、このような状況下にも関わらず、このように多くの方にご参加いただきまして、誠にありがとうございます。
ただ今、司会の方からもありましたが、想定を超える人数の皆様にご出席いただき、式文が不足いたしまして申し訳ありません。ただ今、増刷した分をお配りいたしておりますので、お手元にない場合はお声かけください。ただ今、式文が届いていない方はいらっしゃいますでしょうか? セントポール会役員の皆さん、対応していただければと思います。
このクリスマス礼拝は、クリスマスという、皆様にとってもなじみ深い、親しみのあるイベントを通して、普段、子どもたちが行っている礼拝を保護者の方にも体験していただく、ということで行っております。
まだまだ予断を許さない状況ではありますが、2年ぶりに皆様をこうしてチャペルへお迎えすることができ、また、皆様とともに、クリスマス礼拝を捧げることができることを、私たちセントポール会としても非常にうれしく思っております。
第2部には、本年度、活躍された学友会の活動報告、ジャズ研究会によるクリスマス・コンサートもございますので、ぜひ、最後までおつきあいいただければと思います。それでは、どうぞよろしくお願いいたします。
副校長挨拶:吉川副校長
皆さん、こんにちは。副校長の吉川です。本来ならば、佐藤校長が挨拶すべきところですけれども、お休みされておりますので、僭越ながら私が挨拶させていただきます。どうぞよろしくお願いいたします。
先ほど、セントポール会会長からお話がありました、2年ぶりの対面の開催です。この開催にあたり、今日まで、いろいろと準備をして下さったセントポール会の役員の方々には、心より感謝申し上げたいと思います。ありがとうございました。
クリスマスということでお話をするということで、自分のクリスマスはどうだったかなぁ、と思い出してみるとですね、小さい時の思い出は、やはり『ジングルベル』ですかね。自分の親に何を買ってもらおうかな、これが欲しいなと、ワクワクドキドキするようなクリスマス。そして、学生時代、20代の頃になると『クリスマスイブ』。楽しくて、ちょっとほろ苦い思い出の残るクリスマス。そして、本校に勤務するようになると『サイレントナイト』。チャペルで、お祈りと聖歌のクリスマスとなってきました。このようにですね、クリスマスの意味合い、過ごし方は、小さい時から変わってきましたけれども、クリスマスが12月に行われるということは永久に変わることがないと思います。12月というのは、別名「師走」ともいわれます。師が走る、慌ただしいですね。けっこう、忙しいです。師走というのを調べていくと、12月にはいくつかの異名、いくつかの別の言い方がありますが、「春待月」という言い方もあるようです。春を待つ月。1月の新春を待つ月という意味らしいのですが、何となく、「春待月」ってすごくいい名前だなぁと思いますね。春夏秋冬、これから巡ってくる春、季節が巡ってくる春を待つだけでなく、今は感染症を克服できて、制限のない生活を送れるような春、それを心から待ち望んでいる時であるかとも思います。
今日のクリスマス礼拝ですけれども、第1部は聖歌、お祈り、聖書朗読のクリスマス礼拝。そして、第2部はジャズ研などのクリスマス・コンサートが予定されています。前半第1部は少し厳かに、後半第2部は楽しく、とても良い時間を皆さんと過ごせることを願っています。簡単ですが、これにて挨拶に代えさせていただきます。ありがとうございます。
司式:ベレク チャプレン
パイプオルガン奏者:佐藤雅枝先生
聖書朗読:成田剛士さん(高校1年生)ルカによる福音書第1章26~38節
内田三菜子さん(中学3年生) ルカによる福音書第2章1~20節
海老名聡子さん(中学2年生) マタイによる福音書第2章1~12節
聖歌:
69番「もろびとこぞりて」
103(2)番「A Stable Lamp is Lighted」 立教新座中高クワイヤー
94番「まきびと羊を」
82番「みつかいの主なるおおきみ」
第2部 クラブ活動報告・クリスマス・コンサート 16:00〜17:00
1. クラブ活動報告
高校フェンシング部
橋本祥英君(3-6) 2021インターハイ・フェンシング・学校対抗男子フルーレ優勝
高校サッカー部
平川凌太郎君(3-5) 2021全国高等学校サッカー選手権埼玉県大会第3位
高校野球部
横山大悟君(3-4) 2021第103回全国高等学校野球選手権埼玉県大会5位入賞。
高校吹奏楽
遠藤洋平君(3-1)、植松想君(2-1) 2021東日本学校吹奏楽大会高等学校Bの部金賞
2. クリスマス・コンサート
ジャズ研究会 題目
- My favorite things
- Cleopatoras dream
- 戦場のメリークリスマス
- Feel like makin love
石田チャプレンによる奨励(クリスマスメッセージ)
主よ、私の岩、私の贖い主、私の思いと言葉が御心にかないますように。アーメン
クリスマスおめでとうございます。
本日読みました聖書の第3日課では、「彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた。家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた」とあります。
後ろにクリブという人形があり、イエス様が誕生したときの物語が、目で見てわかりやすく示されています。お帰りの時、御時間がありましたら、ゆっくりと見ていっていただければと思います。また、チャペルニュースの今年のクリスマス号の表紙も、立教学院聖パウロ礼拝堂のクリブですから、見ていただければと思います。そこでは、東方から占星術の学者達がイエスに会うためにやってきますけれど、この学者達・大人たちは赤ちゃんのイエス様にひれ伏しています。これはいかにもキリスト教的なシンボリックな出来事ですね。信ずるものは赤ちゃんにこそひざまづきます。
イエス様は赤ちゃんとしてそこに寝ている。単純で素直で何も持たない子どもですけれども、神はそのようなものとしてご自分を表した。それに学者達がひれ伏すわけです。もうイエス様は子どものままで救い主です。むしろその子どもの単純さ、無力さ、率直さ、素直さこそ救い主と言ってもいいと思います。
実際イエス様はやがて大きくなって全くシンプルなこと、単純なことを言っているだけです。「神は人を愛しているんだ。神様はみんなが大好きなんだ。あるがままでいいんだ。だから私達はたがいに大好きだよと言い合う」。そしてこんなシンプルな教えをイエス様はまるで子どものように実行します。
子どもが「お母さん有り難う」って何の汚れもなく言うように神に感謝し、子どもが隣の子どもに「はいどうぞ」ってなんの見返りも期待せずに持っているものを渡すように人を愛する、そんな子どもの素直さをイエス様は生涯生きてきました。そのことを示すヨハネによる福音書における愛の頂点ともいうべき言葉があります。これは、クリスマスにも関係している言葉ですが、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」と記されています。
神様は、お造りになったこの世のすべてを愛しています。この世の人間を一人ひとり愛しておられます。その人がよくても悪くてもです。いやむしろ、世が悪いからこそ、神様がこの世を愛されたように、悪いからこそ、ますます、私たちのことを愛するのかもしれません。ですから、この“わたし”たちを愛しておられます。だから、赤ちゃんイエスがクリスマスにお生まれになったのです。一度、この御言葉の「世」という言葉を、「わたし」で、「あなた」で置き換えて味わってみてください。例えばこうです。「神は、その独り子をお与えになったほどに、あなたを愛された。永遠の命を得るためである」「神は、その独り子をお与えになったほどに、わたしを愛された。永遠の命を得るためである」
神様は、その愛を示すために、ご自分の独り子イエス・キリストを、この世にお遣わしになり、人間として赤ちゃんとして、全く力の無い無力な姿で生ました。今日の最後の福音書の言葉では、「言は肉となって、わたしたちの 間 に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」といいます。
この恵みと真理とは、イエス様が、すべての人を分け隔てせず愛されたということです。この子どものような素直な愛です。イエス様は、生まれてから生涯それを持っていました。最後は、ご自分を処刑しようとする人とさえ、戦わず、反抗せず、彼らの罪を背負って、その人々をも愛されて、十字架の上で死なれたのです。いま私たちは十字架を見ていますが、すべてを包み込む愛を、神の愛を、十字架の上で証しして逝かれたのです。どうでしょうか、最期は十字架のうえで無力でしたが、しかし、ご自分を処刑しようとする人とさえも愛されます。この素直さ。十字架上でイエス様は、自分を処刑しようとしている人々に対して、「父よ、彼らをお許しください。自分がなにをしているのか知らないのです」と祈ります。
このように「悪人をも救う」と言うと意外に思われるかもしれません。キリスト教は信者だけ、ある意味で善人だけを救う宗教だと思われていますし、現にそのように教えている教会もあります。しかし、本来のイエス様の教えは、すべての人を分け隔てなく愛する暖かい教えであり、これを子どものように素直に伝えることが、神様の願いであると思います。しかし、いつからか、どこかで大人になって素直な心を失って、エゴといいますか、キリスト教を信じる者、あるいは善人、そういう人だけが救われるというような考え方になったんだと思います。今日の聖書の箇所でも「自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた」とあります。ここは簡単に言うと「信じる者は救われる」ということですが、何を信じたからどう救われるのかが重要です。特定の神仏を信じる者はご利益をえるとか、特定の宗教に入ったものが天国に行くというような解釈をすると、おかしくなるのだと思います。そうではなく、「すべての人が救いのうちにあること」を素直に信じる人は、「その救いに目覚める喜びによって」この世でも救われるということです。
イエスが赤ちゃんの姿でお生まれになったということは、神の思いによって、私たちもどんどん大きくなっていくから、絶対安心だということです。その安心の中で、私たちは夜昼、寝起きしながら、ただただ驚いて感動して、赤ちゃん、そして子ども達の成長を見守り、待ち続ける。そして人々に告げ知らせます。「もう始まりましたよ」と。「心配ないよ」、「大丈夫だよ」と。これが「福音」であるとおもいます。だから、イエスは、クリスマスに、無力な赤ちゃんの姿で生まれたのです。そして、この立教学院聖パウロ礼拝堂が、子ども達にそのように感じることができるような場所になってほしいと思います。生徒が、何かへまをして、もうだめだと思ったときに、ここに来て、「悪くたって大丈夫。心配ないよ。そんなありのままのあなたが大好きだ」と言っている神様を感じることができる場所にしたいなと思います。東方から占星術の学者達がイエスに会うためにやってきて、赤ちゃんのイエス様にひれ伏す、このことは、このあるがままで大好きだということを現しています。
クリスマスのこのひととき、そのことをかみしめていきたいと思います。
主イエスキリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが私達と共にありますように。アーメン