譬え話に登場するタラントは古代ギリシアで用いられた通貨単位です。1タラントは当時の労働者の日当6000日分に相当するとされますが、まず注意したいのはタラントンという単位は通貨単位ではありましたが、タラントという貨幣は作られなかったという点です。タラントは最初、水の重さの単位として、それから銀や金の重さを表す単位になり、後に通貨の単位になりました。そして金銀の重さを表す場合、1タラントは33キロ前後で用いられ、これは成人男性が肩の上に担げる限界の重さに由来します。次に、当時の労働者の日当6000日分の額として捉えれば、当時は宗教的な祭日や安息日などから実際に働けることが出来た日数は200日前後くらいだったと考えられます。6000日は30年分相当ですが、当時の平均寿命や人が満足に働けた期間などから考えると、それは生涯の収入相当を意味すると言えます。ちなみにキリストの降誕物語に登場するユダヤ王ヘロデの歳入は1000タラント前後だったと言われており、タラントという額は王や領主クラスになって初めて接する金額となり、一般庶民はまず生涯目にすることのない単位です。旅行に出かけるに際して僕(聖書の直訳では奴隷)たちに、王様クラスでしか扱えない金額を預けられる主人とは一体どんな方なのか。計り知れない財産と、自分の奴隷への無条件の信頼を寄せられる程大きな度量を併せ持つ人物。譬えを聞いている人びとはすぐに神様のことだと勘付いたに違いありません。

神様は僕である人間に対し、それぞれの器量に応じた分の賜物を預けて下さっている。その賜物は一見少なく見えたとしても、それはその人が自分で担える限界の一人分であり、その人が生涯をかけて手に入れる分に相当するということを抑えておく必要があります。また当時は基本的に日雇い契約ですので、その日得られた賃金の殆どは翌日迄には生活費として使うことになります。すなわち生涯をかけて獲得できる金額は、生涯をかけて使いこなす金額であり、遺産として残せるものには到底なり得ないことから、神様から預けられた賜物も自分が生涯をかけて使い切る、使いこなすためのものと言えます。この使いこなす、というのが大事なポイントです。使い方について譬えを見直してみましょう。

巨額のお金を預けられた僕たちはそれを元手に商売を始めます。商売とは余っている人=多く持っている人から買い取り、欲する人=少なく持っている人へと売ることから始まり、商人は多い人と少ない人を繋ぐ=仲介することで利益を得る人と言えます。どこに余っているのか、誰が欲しているのか、その情報を正しく早く掴むことが成功の秘訣です。また売買についてですが、現代においてもこの地域では値段があってないようなもの、すべては売り手と買い手の交渉次第です。商人は様々な人と出会い交渉し、信頼関係を築き拡げることで取引を拡大させます。一度切りの一攫千金は相手を泣かせることになり易く、長い付合いにはなり得ない上に、恨まれて仕返しされる原因にもなりかねません。巨額の元手を倍にしたことは、多くの地道な取引の繰り返しを意味しており、沢山の人との間に信頼関係を築き上げた証と言えます。一方で地の中に金を埋めて隠した僕は、誰かとの出会いと交わりの機会を捨てたこと、また誰かとの関係を築くことを最初から拒否したことを意味します。

また当時の共通認識では、旅をする際に巨額の金を奴隷に預ける人物など、ほぼありえない話です。主人に虐げられていた奴隷であれば、その金を横領して逃げ出すという可能性の方がずっと高く、そこまで奴隷を無条件に信頼できる主人は極めて稀です。ですが、譬え話の主人は奴隷を無条件に信頼し、国家的な額の金を預けています。これは僕たちに利益を上げさせるために預けたのではなく、自分の留守の間に僕たちが孤立孤独になることのないよう、彼らが誰かと出会い交わりの機会を得て、良い関係を築いて共に生きるための交わりの道具として使わせるために預けたことが考えられます。だからこそ沢山の交わりを行って良い関係を築くことの出来た僕を自分のことのように喜び誉めて、何もしなかった僕を主人の意図を理解しない不忠者だと叱ったのです。

神様は私たちに他者と出会い、良い交わりを築くための機会や道具として、それぞれの器量や適性に合わせた賜物を預けて下さっています。他者の目にも分かり易く、また目立つ形の賜物を預けられている人がいる一方で、姿形には表れ難い賜物を与えられている人もいます。自分に預けられている賜物がどんなものか、自分ではなかなか分かり難いものが多く、自分でこれだと思っていても、後になって実は違っていたということも少なくないように思います。むしろ、出会い交わった誰かから自分の長所や適性といった神が預けられた賜物を教えてもらい、また自分も相手の賜物を見つけ出して教える、教え合いの形で判明することが殆どではないかと考えます。誰かを助けるといった分かり易い賜物もあれば、誰かに助けられることによってその相手を活かす賜物もあります。賜物の違いが私たちの個性となっているとも言えます。

譬えの商売のように、多くある者が少ない者と手を取り合って生きる関係、共に生きる人生の歩みこそ、神が求められる私たちの生き方であり、共生社会=神の国・天国を生み出します。イエスの語られた天の国、神の国の譬えの題材は、読み返すと非常にこの世的であり、どこが天国の話なのかと質問したくなりますが、イエスは天国や神の国は死後の世界の話ではないと仰りたいのでしょう。私たちの生きるこの世界をこそ、私たちそれぞれの働きや交わりで神の国に戻さねばならないのです。私たちの働き次第、交わり次第で、私たちの世界は天国にもなれるし、また地獄にもなってしまう。実際、地獄は今この瞬間も世界のあちこちに姿を見せており、放置すれば拡大するのは間違いありません。私たちの世界を天国に戻す第一歩は、私たちに預けられている賜物を、神が望まれるように誰かとの出会い交わりにおいて惜しむことなく使い、互いに助け合い支え合う良い人間関係を築き、それを拡大させることです。そのためにも、ここに集う私たちはもちろん、私たちに連なる人たち、ことに私たちが日々関わるお子さんたち、生徒たちに神様が預けられている賜物=可能性を正しく見出し、使うことができるように、ご一緒に関わって参りたいと願います。