「キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい。妻たちよ、主に仕えるように、自分の夫に仕えなさい。キリストが教会の頭であり、自らその体の救い主であるように、夫は妻の頭だからです。また、教会がキリストに仕えるように、妻もすべての面で夫に仕えるべきです。夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。キリストがそうなさったのは、言葉を伴う水の洗いによって、教会を清めて聖なるものとし、しみやしわやそのたぐいのものは何一つない、聖なる、汚れのない、栄光に輝く教会を御自分の前に立たせるためでした。そのように夫も、自分の体のように妻を愛さなくてはなりません。妻を愛する人は、自分自身を愛しているのです。わが身を憎んだ者は一人もおらず、かえって、キリストが教会になさったように、わが身を養い、いたわるものです。わたしたちは、キリストの体の一部なのです。「それゆえ、人は父と母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。」この神秘は偉大です。わたしは、キリストと教会について述べているのです。いずれにせよ、あなたがたも、それぞれ、妻を自分のように愛しなさい。妻は夫を敬いなさい。子供たち、主に結ばれている者として両親に従いなさい。それは正しいことです。「父と母を敬いなさい。」これは約束を伴う最初の掟です。「そうすれば、あなたは幸福になり、地上で長く生きることができる」という約束です。父親たち、子供を怒らせてはなりません。主がしつけ諭されるように、育てなさい。」
エフェソの信徒への手紙5章21節~6章4節
父と子と聖霊の名によって。アーメン
 
先ほど読まれた聖書箇所の21節からではなく、22節からのところを、結婚式の翌朝に夫が妻に読み上げたという人を知っています。10年間かかりましたが、驚くこともなく、その二人の関係がどうなったか想像は付くかと思います。今日読まれた箇所は「キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい」と言うところから始まりますが、人間は自分の都合に合わない箇所を飛ばして読む傾向があります。「妻たちよ、主に仕えるように、自分の夫に仕えなさい。」そこから読み始める夫はきっと大きな間違いを犯すに違いありません。妻が夫に仕えることはあくまでも「互いに仕え合う」という枠組みの中で生じることです。
先ほどの21節と22節でもう一つお気づきになったことがあるかもしれません。それは、「キリストに対する畏れ」と「主に仕えるように」という言葉です。実は、このチャペルで卒業生や学校関係者が結婚式を挙げるときにまずお話することは、キリスト教の結婚式とホテルなどにあるウェディングチャペルの結婚式との違いです。わたしの友だちでもウェディングチャペルの牧師の派遣会社の社長をしている人がいますが、一般的に「キリスト教式の結婚式」と言われているものは、決してそうではありません。キリスト教式ではなく、「洋風の結婚式」に過ぎないのです。なぜかと言いますと、そこには神への誓いの言葉と祈りが本来の形と意味で行われていないからです。キリスト教式の結婚式をするのであれば、まずは神と主イエス・キリストの存在が二人の関係性の基盤となります。
「キリストに対する畏れ」、「主に仕えるように」という言葉に重ねて、この手紙を書いた聖パウロ(セントポール)は次に夫に対しての教えを説くのであります。「夫たちよ、キリストが教会を愛し、教会のために御自分をお与えになったように、妻を愛しなさい。」わたしは結婚して約3年経ちますが、人に仕えるよりも人を愛する方が難しいと感じております。多少心が入っていなくても、人に仕えることは割り切ってできるかもしれませんが、人を愛することは心そのものから生じ、言動だけではなく、意識や態度にも大きく影響をします。パウロは妻に対して厳しいことを言っているように思い込んでしまう人は多くいます。それは間違っているわけではありませんが、それ以上に夫に対する言葉を重くとらえる必要があるのだと思います。夫は妻の頭であるならば、家庭の責任者でもあり、世帯主でもあります。そして、そうであるなら、家庭のことを放置したり、気に掛けなかったりすることが罪になってしまいます。その上、パウロは夫に対する戒めに最も時間をかけて細かく書いています。
キリストが教会というお弟子さんたちの集まりを愛した愛というのはどのような愛だったのでしょう。それは、まさに、「御自分をお与えになった」愛であります。そして、夫と妻が一つとなるというキリスト教の結婚についての考えのもと、自分を愛することと妻を愛することは夫にとって同じことであるのです。妻が悲しんでいたり、寂しがっていたり、苦しがっていたりしたら、夫も同じように悲しみ、寂しがり、苦しむはずです。妻が喜ぶのであれば、夫が一緒に喜ぶはずです。妻が悩んでいたら、夫も一緒に悩むべきです。そのように愛するのでなければ、夫が妻の頭になるというのはそういうことではないでしょうか。
もちろん、このように人を愛することを完璧にできる人はいません。しかし、完璧にできないからと言って、「やる必要がない」とか「努力する意味がない」ということにはなりません。愛することを努力する姿ほど尊いものはないですし、そのような夫に仕えたいと思う妻も少なくはないでしょう。
キリスト教式と洋風の結婚式の一番大きな違いは、先ほどお話したように、神と主イエス・キリストがどのように二人の関係性の基盤となっているかどうかです。二人だけで見つめ合い、二人だけで愛し合おうとしても上手く行かないことも多いでしょう。神という共通の愛の源から愛を頂き、イエスを通して愛の模範を示されて初めて夫婦としてどのようにお互いを愛したい、仕え合うことができるのかが見えてくるのです。教会の頭であるイエスは、弟子たちに対して最後に行ったことの一つは彼らの足を洗うことでした(ヨハネによる福音書13章)。頭である夫はどのように妻の足を洗い、彼女に仕えることができるのでしょうか?僕(しもべ)のように教会に仕えているイエスが模範を示しています。キリスト教の夫婦関係のすべてはイエスと教会の関係を基に生まれて来るものです。
キリスト教の結婚についての教えは決して人気のあることではありません。洋風の結婚式は人気ですが、それは見た目綺麗に見えるだけのことです。日本で最も有名なウェディングチャペルの一つに訪れたとき、そこのチャペルにはパイプオルガンがあると言われたことがあります。しかし、それはパイプを表に置いているだけで、その裏には電子オルガンが設置されていることをオルガニストの友だちからすでに聞いておりました。そのように、洋風の結婚式は上面のものですが、キリスト教の結婚はイエス・キリストの愛に基づく約束というまことの関係性を生み出そうとするものです。見た目だけを気にするのであれば、一人の大人がもう一人の大人と約束をすればいいのです。そこには神もイエス・キリストも必要ないですし、夫と妻という概念も必要ありません。夫が二人いてもいいわけですし、妻が二人いてもいいのです。しかし、イエス・キリストと教会の関係を基盤とするキリスト教の結婚には、主の畏れのもとに、そしてイエスの模範にならい、互いに仕え合い、互いを愛し合う夫と妻がいるのです。
 そして、夫婦の二人の関係性にもう一つ、神のみ心であれば、生じるものがあります。それは、父親と母親という関係性です。本来は、夫婦の愛のもとに子供が自然に生まれて来るのであり、その愛に包まれて育つのがキリスト教の家族であります。その中で、「父と母を敬う」という命令があります。最も大切な命令の一つです。立教中高の生徒にはしばしば言っておりますが、父と母を敬うことは決して簡単なことではありません。皆さんのご子息は非常に頭のいい子たちですし、大人を非常によく観察しています。親を始め、大人がどういう人であるかをよくよく観察しています。親の欠点が見えたとしても親を敬うことができる人になれば、どんな状況に置かれてもその人はきっと他者を尊重することができる人に育つのだと信じています。
ただし、ここで問題が生じます。親を観て育つ子供たちは、親をまねしてしまいます。夫が妻を尊敬しなければ、子共が母親を尊敬するようには中々なりません(例外はもちろんありますが)。妻が夫に仕えることをしなければ、子共たちはどうして父親に仕えるようになるのでしょうか?夫と妻がお互いの言うことを聞き入れ、尊重しなければ、どうして子供たちがそうするようになるのでしょうか?
夫たちが頭であるならば、自ら妻に尊敬を払い、愛することと仕え合うことを始めなくてはなりません。自分から行動を起こさないのであれば、妻が頭になればよいのではないでしょうか。その場合、夫たちは妻に仕えるようにしなさい。
子どもたちを愛していない親はここにはいないと思います。子供を愛しているからこそいい学校に行かせようと思っているのだと思います。しかし、夫婦が互いに仕え合う姿、互いに尊重しあう姿を子供たちに見せる必要があります。そうすれば、基本的には子供たちもそれをまねします。「なぜ子供に尊敬されないんだ」と言う父親は、彼らの母親に対してどのように接しているか、考える必要があります。母親に関しても同じです。父親の愚痴や嫌なところをいつも子供たちに言っているのであれば、自分が尊敬されません。決して簡単なことではありません。しかし、二人だけですべて解決しようとするのではなく、神とイエス・キリストに倣い、互いを赦し合いながら努力していくことがキリスト教の結婚関係です。
子どもたちにとって一番必要なのは学歴ではなく、立教大学に進むことでもなく、裕福な生活をすることでもありません。もちろん、それぞれ良いことではありますが、子共たちが最も必要としているのは、主を畏れ、互いに仕え合い、互いを愛し合う家族であります。そのためには、家族の優先順位をはっきりさせなくてはなりません。時には、仕事よりも家族との時間が大切になります。時には、部活に行くことよりも家族で食事をすることが大切になります。学校に受験することよりも互いを愛することが重要であることを信じますか?いい成績を取ること、好きな部活で活躍すること、スマホでゲームをすることなどに覆われている子供たちは幸せになるのでしょうか?それ以上に大切なことは家族としてあるのではないでしょうか?そもそも、学歴と幸せ度は直接関係することではありませんが、それでもそれを何よりも重視する社会的の中を生きています。家庭の環境と幸せ度は直接繋がっていますが、これをもっと重視する必要はないのでしょうか?
この話はチャプレンが自分に言い聞かせている話だと思ってください。キリスト教の結婚式をしたわたしにはこのような模範と基盤があるべきですし、妻の頭としての責任があります。その責任を逃れながらも妻に尊敬されたい気持ちもよく分かります。その時に必要なのは、私たちに愛の道を示した主イエス・キリストと教会です。この道を家族として歩んでみませんか?
父と子と聖霊の名によって。アーメン。