2024.6.8
チャプレン倉澤一太郎
イエスは町や村を巡って教えながら、エルサレムへ向かって進んでおられた。すると、「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」と言う人がいた。イエスは一同に言われた。
「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。家の主人が立ち上がって、戸を閉めてしまってからでは、あなたがたが外に立って戸をたたき、『御主人様、開けてください』と言っても、『お前たちがどこの者か知らない』という答えが返ってくるだけである。」そのとき、あなたがたは、『御一緒に食べたり飲んだりしましたし、また、わたしたちの広場でお教えを受けたのです』と言いだすだろう。しかし主人は、『お前たちがどこの者か知らない。不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ』と言うだろう。あなたがたは、アブラハム、イサク、ヤコブやすべての預言者たちが神の国に入っているのに、自分は外に投げ出されることになり、そこで泣きわめいて歯ぎしりする。そして人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く。そこでは、後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある。」
(ルカ福音書13:22-30)
「狭い戸口」と言われますと、私たちは受験や就職などにおける競争の激しさや目標達成の困難さを表す「狭き門」を思い浮かべないでしょうか。実際、「狭き門」に相当する言葉が別の福音書で言及されていますので、「入ろうとしても入れない人が多い」と言われてしまえばその困難さを表しているのだと受け取ってしまいがちです。譬え話の終わり部分からも推察できますがイエスは宴会を神の国=天国に譬えておられ、狭い戸口から入ることがどうして「救われる」ことに繋がるのか、神の国に入りやすいことになるのかすぐには理解できません。普通は広く大きな門から入る方が入りやすいはずなのに、狭い戸口からではむしろ入り難いイメージしか湧いてきません。読み方によっては宴会とは私たちが死後に行く世界のことであり、多くの神話で語られる天国や極楽のように神が死者たちを招く宴会の話をされたのだとも解釈されがちですが、イエスは畑や湖での労働や、日々の食卓で用いられるスパイスやパン種を天国の譬え話に用いており、それらは当時の人びとにとって極めて身近にして日常的な題材と言えます。神話に描かれた天国や極楽は苦しい日常生活では体験できなかった当時の人びとの憧れが生み出した夢と考えますが、イエスは身近な日常の題材を語ることで、夢に逃げるのではなく今生きている世界をこそ天国に変えなさいと言われたように考えます。狭い戸口から入りなさいとは困難な道ではなく、天国へ入る最短経路について語られているのです。そして狭い戸口が何であるかを知るには古代ローマ時代の日常を知ることが鍵となります。宴会の主催者は予め招待客に出欠の可否を訪ねることは現代でも変わりませんが、出席すると返事した客以外はどんなに親しい友人や有力者であろうと当日の飛び込み参加は断りました。これは当時の宴会の席次が座る人の権力や影響力を表すものとされたこともあり、開会までに招待客に納得させて席に着かせるまでが主催者にとっては一番の苦労でした。また宴会は主催者と客との協力によって成立しますので、遅れて来るような客は主催者だけでなく他の客にも迷惑な存在と見做されました。一方狭い戸口とは屋敷の裏口、厨房に通じる勝手口のことです。首都ローマでは荷物を運ぶ馬車や荷車は昼間の通行は禁止されており、日没から日の出の間にだけ市内への物資輸送が行われました。宴席で供される大量の食物や酒を屋敷に運び込むのも荷車が使用できるのも夜間となるため、この間は屋敷の使用人や業者が使用する勝手口が施錠されることはなくなります。狭い戸口から入れとは施錠されない勝手口から入りなさいとなり、それは宴席に招かれる招待客ではなく、宴席を催すために裏方として働く使用人になるのが神の国へ入る最良の方法だと教えられたのです。自分を招待客だと思い込んでいるようでは入れてもらえなくなるし、働く覚悟があるならば誰でも神の国に入れてもらえるのです。戸口が狭いと感じるのも選別や競争の激しさのために狭いのではなく、自らの選びや行いによって狭め閉ざしてしまっているためで、神の国の実現のために覚悟を持って働く人であるならば誰に対しても閉ざされることのない入口となるのです。大事なのはイエスが語る神の国とは当時の人が夢に見た、また私たちがイメージしがちな死後に行く天国や極楽のようなものではなく、生きている内に皆で協力してこの世に作り上げる神の摂理を基とする世界のことなのです。それは飢えている人から目を背けるのではなく、彼らと自分の食物を分かち合う世界。病んでいる人や悩む苦しむ人が放置されず、見舞い励まし話を聞いてくれる人がいる世界。理不尽な扱いを受ける人と共に嘆き怒る人がいる世界です。イエスはその生涯を通して神が望む人の生き方、人と人との交わりの仕方を自ら示されましたが、それこそが神の国の作り方、狭い戸口の入り方だと言えます。誰かに任せて作り上げてくれるのを待つのではなく、私たちそれぞれが出来る事を仲間と共に実践することによって、私たちの世界を神の国へと変えることが求められています。
(6月8日のセントポール会チャペルアワーでのメッセージを、会場に来られなかった方にもお分かりいただけるように手直しいたしました。)